Vol.6 総合生存学館(思修館) 篠原 雅武 特定准教授

篠原 雅武 特定准教授
Shinohara Masatake

京都大学総合人間学部卒業、同大学大学院人間・環境学研究科博士課程修了。博士(人間・環境学)。専門は哲学、環境人文学。著書に『公共空間の政治理論』『人新世の哲学』(いずれも人文書院)『空間のために』『全−生活論』『複数性のエコロジー』(いずれも以文社)、『生きられたニュータウン』(⻘土社)、『「人間以後」の哲学』(講談社選書メチエ)。訳書に『社会の新たな哲学』(マヌエル・デランダ著、人文書院)、『自然なきエコロジー』(ティモシー・モートン著、以文社)などがある。
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令和5年度の京都大学における篠原先生の授業「人新世の哲学」は、京都大学の全ての大学院生に開かれている。

世界の再構築のための思考と言語

脆さの感覚、壊れやすさの感覚(sense of fragility)、つまり「自分の身体が直接つらなる『地面についた世界』そのものが潜在的に不安定性を抱え込んでいる」(p. 14)ということ。

日本の建築家には建築だけでなく、周辺環境についても考えながら実践する人が多いが、その背景には震災をきっかけにより強く認識されたこうした感覚があるのではないか。建築を勉強するフランス人学生との対話を、篠原先生は『「人間以後」の哲学』(講談社選書メチエ、2020年)のプロローグで紹介している。

この脆さ、壊れやすさの感覚、普段気にもとめていなかった、自分の生活を支えていたものが崩れてしまい、荒々しい脅威に直接さらされるような感覚、不安。それはコロナ禍によって、また世界中で次々に起こる自然災害についてニュースで知るたびに、ますます強くなってきているように思われる。こういった感覚だけではなく、わたしたちは知識としても、地球温暖化等の気候変動や環境破壊が深刻化していることを知っている。

80億人に達した人類が生産してきたプラスチックなどの人工物は生物全体の量を上回り、人類の活動は地層に痕跡を刻み始めた。人類は増えすぎただけではなく、地球を変えすぎた。その時期を地質年代として記録すべきだという主張から、「人新世(じんしんせい/アントロポセン)」をめぐる世界的な議論が続いている。

これから先も人間が地球上で生きていくためにはどうすればいいか。現在たまたま享受している平穏に感謝し、自分でできる環境対策を実践していけばいいのだろうか?それではあまりにも限られていないか。

篠原先生は上述の著書においてこう書いている。

「従来の世界像の崩壊を認め、変化する現実においてなおも生きていくことの支えになりうるものとして世界を再構築するのにふさわしい土台、または設定のための原理を問い、理詰めで言語化することである――これが現代の哲学の課題であるはずだ」(p. 63)

「無意味で過剰なイメージと情報が世の表層を覆い尽くすなかで、主体性の喪失と思考停止、想像力の欠如を特質とする集団的没個体状況が優勢になっていく状況から逃れ、思考し、言葉を発すること」(p. 244)

何をどう考えていけばいいのか。その思想的な基盤を構築するために、これまでの哲学の水脈に、一つひとつ丹念に光をあてなおし、深い読解をつうじて、自身の精緻な思考を紡いでいるのが彼の著作だ。わかった気になるような喩えは排され、本質的な問い直しと哲学的な理論化に至るための言葉が丁寧に展開されている。

直接お話を聞きたいと思い、研究室を訪ねた。

人新世の人間の条件

「僕が⻑らく取り組んでいるのは、人間が生存していくための条件についての哲学的な考察で、20世紀半ば以降の実存主義の主題でもあるのですが、気候変動やエコロジカル・クライシスと言われる時代において、この条件が、じつは安定的でなく、不安定的になっているのだとしたら、そこで生きていくことになる人間は本当のところどうなっているのか、というようなことを考えています。人間は人間が作ったものにより条件づけられているのですが、それでも、その外にある自然としかいいようのないものに影響を受けてしまい、そこから自由になることができなくなっています。そういうことが見えてきたのにもかかわらず、現代社会を形づくる近代的価値観では、人間と自然は分けられることが前提になっています。人間は自然をコントロールできるし、そこから離れて生きることもできる。その設定のもとで人間の社会は成り立っている。だけど実際は、なかなかそうはいかない。

たとえば、ドイツ出身の政治哲学者・思想家であるハンナ・アーレント(1906-1975)は、原子爆弾の開発で人間の生存の条件が変わってしまったと言っています。核分裂など、それまでの常識では捉え難いことが科学で起こってしまったわけですが、この現象から出てきた技術や思考が、人間の条件を規定するようになった。つまり人為的な、アーティフィシャルなものが人間の存在条件を変えてしまうということなのですが、その人為の領域を限界まで突き進めていったら、人為ではコントロールできない現象が出てくるようになった。地球のあり方が不安定化し、そこに住む人間の場所も不安定化した。インド出身の歴史学・思想史研究者のディペッシュ・チャクラバルティは『アンインハビタブル(uninhabitable)』という言葉を使って、かつては住むことができた場所にだんだんと住めなくなっていく状況のなか、それでもそこで住んでいくことの条件を考えるという話をしています。また、『惑星』という、グローバルとは別の次元に着目し、人間の尺度を超えた領域のなかに人間もまたその一部分として放り込まれていくという認識を示し、そこで共存の形式を発案することができるかどうかが今の人間に問われていると言っています。これが多分、現在の人間の条件をめぐる究極の問いなのでしょうし、僕が関わっている人新世の人文学の最先端の問いだと思います」

人新世の哲学、人新世の人文学は、上述の地質学をはじめとした自然科学分野の研究成果や議論に対し、文系の研究者や作家が反応し、人間の生存条件や人間と自然の関係など、人文学的な問題意識から議論や考察を深めていくというかたちで進んでいる(『人新世の哲学』人文書院、2018年、p. 16参照)。

篠原先生はこの人新世の哲学に関連する著作や論考、翻訳を多数手がけてきた。近年は英語で執筆し、国際的な最先端の議論に加わっている。非⻄洋の視点を持ちながらも英語で書くことの手応えを感じている。

彼の研究はまた、学問の世界に閉じていない。写真、建築、演劇など、芸術の世界と接続し、思考を深め、方向性を見出している。人間の生活を支える基盤の揺らぎ、定まらなさを考えるとき、アーティストたちが先んじて感受し迫ろうとしている、言語になる前の領域が鍵になると考えているからだ。ただその領域を、学問的に筋道立てて言語化するのは難しいという。それでもそういったアーティストたちとの交流があり、いくつかのエピソードを聞くと、それは単に異分野同士が協力する(場合によってはそれが目的化することもある)ということではなく、あるいはアカデミアからアートを評論する、という図式化された関係でもないことがわかる。芸術と哲学、それぞれが追求している思考や表現に対して、フラットに影響を与え合っている。

近代化の先へ、哲学的理論化

先生がいま話してみたいのはどんな人か、尋ねてみた。

「数学や物理をやっている人は普段何をやっているのか、聞いてみたいですね。あるアイディアをどうやって明確化するのか。僕がやろうとしている哲学的な理論化も、日本ではあまり行われていないので、自分が言っていることが本当にあっているのか、間違っているのか、日本語だけで書く限り、自分ではわからない。だから英語のジャーナルに出して査読を受けて掲載されるよう頑張る、という地道な過程を今は大切にしています。

最近、南部陽一郎についての本を読んでいて、いろいろ気づかされたのですが、たとえば物理では、ある素粒子がありそうだけれど、本当にあるのか、あることを証明するにはどうやってロジックを組み立てるか、ということが問われているらしいのです。ありそうだけれどあるのかよくわからないものに関心を向け、その存在について理詰めで説明するという姿勢はどことなく、自分のスタイルと似ているように思いました。というのも、僕が考えているのは、人間は近代化の中で人間と自然の二元論で世界をコントロールしてきたが、コントロールできない残余のようにあったものが前景化してきたときに、それとどうやって新しく向き合うのかということだからです。これをいったいどうやって理論化したらいいのか、結構大変なのですが、南部陽一郎の本を読んでいたら、なんだかできそうな気がしてきました」

篠原先生は精緻な著作の「裏側」を語ってくれた。彼がやろうとしていることは、これまでの人文学の思考の枠を設定しなおすというとても大きな試みだ。だからこそその著作のページを開くたび、新たな気づきを得るとともに、わからなさもまた深くなるのだろう。

(2023年3月 構成:藤川 二葉)