Vol.4 人文科学研究所 東アジア人文情報学研究センター施設訪問(案内:永田 知之 准教授)

東アジア人文情報学研究センター

前身組織である漢字情報研究センターが、研究資料のデジタル化という潮流をうけ2009年4月に改組、人文学と情報学を融合させる同センターが誕生した。旧・東方文化学院京都研究所の建物(現・人文科学研究所分館、登録有形文化財)に所在。史料情報学・言語情報学・文献情報学・目録情報学の4部門からなり、漢籍目録・文献類目・史料情報・研究支援・図書閲覧の主要5事業を実施してきた。

永田 知之 准教授
Nagata Tomoyuki

京都大学文学部文学科中国語学中国文学専攻、同大学院文学研究科文献文化学専攻中国語学中国文学専修に学び、2005年に人文科学研究所に助手として着任。ハンブルク大学写本文化研究センター研究員を経て、2013年より同研究所准教授。東アジア人文情報学研究センタースタッフ。中国古典の文学理論を専門とし、単著に『唐代の文学理論:「復古」と「創新」 』(京都大学学術出版会、2015年)、『理論と批評:古典中国の文学思潮 』(臨川書店、2019年)があるほか、論文・共著書多数。

2023年1月30日、北白川の人文科学研究所分館に所在する、東アジア人文情報学研究センターを訪問した。センターでは永田知之先生が案内してくださり、人文科学研究所の歴史、センターの建物と所蔵資料の由来を説明していただいた。この説明を通して、人文情報学をリードする同センターが人文科学研究所分館に設けられることになった歴史的・思想的な流れを知るとともに、京都大学の、人が集う大学としての源流の一つを見たように思われた。

「研究所半分、図書館半分」

最初に案内していただいたのは、書庫だった。今回は特別に見学を許していただいたものの、人文科学研究所図書室の蔵書管理は厳密であり、書庫に立ち入ることができるのは人文科学研究所の教員と職員のみ。それ以外の人は、職員に出庫してもらった本を閲覧室内で読むことになる。書庫には 3 階層にわたるスペースが確保されており、その中に各層を貫いた書架が立ち並ぶ。

永田先生:センターが所在している人文科学研究所分館は、研究所半分、図書館半分という作りです。義和団事件(1900年、清朝末期の中国で起こった反・キリスト教、排外運動)ののち、日本を含めた関係各国は中国側から賠償金を受け取るのですが、その賠償金を中国のために使用するという潮流が生まれました。そこで日本は、中国にむけた文化事業の一環として、1929年、東方文化学院が設立され、その研究所を東京と京都に設置、翌年に京都研究所としてこの建物を建設しました。1938年に東方文化学院は東京の同名の組織と、京都の東方文化研究所に分かれます。1949年に、それまで外務省所管だった東方文化研究所と社団法人西洋文化研究所(ドイツの文化センターだった独逸文化研究所から1946年改称)とが、京都大学人文科学研究所と合併され、京大の一部になったわけです。そしてこの書庫は、東方文化学院京都研究所の、まさに中心でした。そこで、所員が書庫内でも本を読んで研究できるよう、天窓から採光する構造をとり、各階層の床には光を通すすりガラスがはめ込まれています。

―どのような蔵書が収められているのですか?

永田先生:この書庫に収められているのは、主に古い漢籍でして、現代中国書は別のところに所蔵しています。ただ、ここで「古い」というのは、物品としての本の古さではなく、テクストの内容が古い時代に書かれているということです。ですので、近年に出版された本でも古典的なテクストがコンテンツの場合は、この書庫に収められます。また1965年に東洋学文献センターという、現在の東アジア人文情報学研究センターの起源になる組織が設置されたのですが、「文献センター」という名前の通り、文献を収集・公開して所外の研究者が利用できるようにしていました。そこで、関西圏にない文献を撮影・製本した「景照本(えいしょうぼん)」も多数所蔵しています。

―貴重書も多いのでしょうか?

永田先生:現在では、結果的に貴重書も所蔵されています。「結果的に」と言いますのは、書庫が設立された当時は研究のための資料として書物を集めましたので、貴重な古版本ではなく、そのころ比較的手に入りやすく、欠落のない本を優先して購入していました。ですが、購入されてから 90 年近くが経った結果、それらの蔵書がむしろ貴重書になってきています。また先生方の蔵書が寄贈されたとき、その中に貴重書が含まれているということもありました。

―蔵書はどのような順で配架されているのですか?

永田先生:中国の伝統的な書物分類である「四部分類」に従って配架されています。つまり、第一層に経(儒教書)・史(歴史書)、第二層に史、第三層に子(儒教以外の思想書や技術書)・集(文学)というかたちですね。また第二層には叢書(全集類)も配架されていますが、これは研究所設立当時に蔵書を充実させるため、天津の銀行家で蔵書家として有名だった陶湘(とうしょう)から叢書類をまとめて購入したので、蔵書に占める叢書の割合が多かったからです。現在の日本の多くの図書館では、四部分類にしたがって漢籍を配架していません。ですが、漢籍の著者は四部分類を念頭に置いて本を書いていたはずなので、四部分類で配架するのは、古めかしいようで、実は合理的なのです。

永田先生のご説明からは、物体としての書籍の貴重さよりもコンテンツを重視した蔵書構築、漢籍の内容に即した配架というように、テクストデータに焦点を合わせるマインドセットが東方文化学院時代以来受け継がれているという印象を受けた。その伝統の上に、情報学によってテクストデータを取り扱う東アジア人文情報学研究センターが設立されたことは、必然的な流れだったのかもしれない。

中国・中央アジアの資料を収集

書庫の次に案内していただいたのは、書庫のある建物の外、敷地の奥まったところにある収蔵庫だった。1階には、棚に木箱が並んでいた。

永田先生:人文科学研究所には、文献学者だけではなく、美術史や考古学の研究者もいます。この収蔵庫の1階に収められているのは、その資料となる考古遺物です。戦前には、中国の雲岡石窟や龍門石窟を調査し、大きな成果を挙げた研究プロジェクトが行われました。その成果として出版された本を、吉田茂首相はサンフランシスコ講和会議に持参したそうです。中国で採取された拓本もあります。石碑に紙を押し付けて墨で写し取ったものです。石碑は徐々に風化してゆきますから、ここの拓本には現在の石碑では作れないような鮮明なものもあります。戦後には中国で調査旅行が行えなくなりましたので、中央アジアで発掘が行われました。この遺物をおさめた箱に「IAP」と書いてあるのは、イラン・アフガニスタン・パキスタンの略号です。

続いて2階に上がると、一面に書架が並んでいた。

永田先生:ここに配架されているのは、現代中国書です。一時は中国大陸で出版された本のすべてを収集するという方針が採られたこともありましたが、当然ながら集めきれることもなく、すぐに頓挫したようです(笑)。中国大陸で文化大革命が進行していた当時は、本の出版もほとんど止まりましたので、そのころ購入した本は台湾か香港から来たものです。

集まって、創り出す

収蔵庫から書庫のある建屋に戻り、2階に上がると、大会議室に入った。天井の高い、瀟洒(しょうしゃ)に飾られた空間が目に入った。

永田先生:ここはもともと、講堂でした。かつては正面に一段高い演壇が設けられていました。正面の壁の高いところに、手すりのようなバーがありますが、あれは講演の際に図を吊すためのものです。この部屋の調度は、通常の大学や研究所よりも凝っていますが、それは源流となった東方文化学院が外務省所管の組織であったため、建物にお金をかけて大使館のようにしたからではないでしょうか。その後、1965年に東洋学文献センターが設置されたとき図書閲覧室になりましたが、2012-13年に建物を改修した際、閲覧室は1階に移り、元・講堂は大会議室として使われるようになりました。

―講堂は講演会に使用していたのですか?

永田先生:講演や公開講座のほか、日常の業務でも使用されていました。それというのは東方文化学院時代以来、この研究所では分野を横断した共同研究を行うことが目玉になっていたからです。そのために、研究者がこのような場所や1階の共同研究室で会合していたのです。分野を越えて新たな研究を作り上げるためには、研究者が一か所に集まって生活を共にしなければならない、という発想がこの元・講堂以外にも、この建物の随所で見られます。たとえば、先ほど案内した書庫の1階は、もともと食堂でした。厨房が地下にあり、そこから料理を運んだそうです。所員は食堂に集まって昼食をとると決められていたそうです。若い所員にしてみると、偉い先生と必ず昼食を食べるのは、むしろ気苦労が多かったでしょうね(笑)。

―昼食には何を食べていたのですか?

永田先生:中華料理でした。ちなみに、その後、中国人料理人の一人は四条にある東華菜館の創設メンバーになったと聞いております。東華菜館の料理には、かつての所員が食べていた料理の名残があるのかもしれません。

大会議室を出ると、目の前にあった階段で正面から見える塔に登った。塔の頂上からは周りの市街地が一望できた。塔の途中、東側に設けられたテラスは、大文字の送り火が行われる如意ヶ嶽を正面にのぞんでいた。

永田先生:この建物は、南ヨーロッパの修道院をモチーフに、スパニッシュロマネスク様式で建築されています。もっともその様式のままだと京都の寒さでは厳しいので、中庭に通じる廊下にガラスをはめたりしていますが(笑)。90年前の写真を見ると、当時は周りにほとんど何もありませんでした。現在、塔から見えるような住宅地になったのは、それ以後のことです。この辺りには貝塚茂樹先生をはじめとして、京大の先生方が住宅を構えました。

『人文科学研究所50年』(京都大学人文科学研究所、1979年)によると、1930年代にここに集められた研究員は平均年齢 20 歳台の若手研究者であり、彼らは研究所の評議員を指導員として、ひたすら研究に専念していたという。東アジア人文情報学研究センターが所在する人文科学研究所分館は、研究を結節点として人が集い、新たな学知を創造するというシステムをまさに具現化したものだったと言えよう。

「図書館の中に住む」

訪問を終えるにあたり、永田先生ご自身の研究について伺った。

永田先生:私は中国の古典文学を専門としています。といっても個別の作家論や作品論ではなく、文学理論や文学批評を研究してきました。つまり、昔の人が、文学に何をどのように書いてはよく、何をどのように書いてはよくないと考えていたか、ということです。

―人文科学研究所の歴史についても、お詳しいですね。

永田先生:私は2005年に入所してから現在まで、ほとんどこの建物で研究を続けてきました。京大本部構内に人文科学研究所本館がありますが、そちらに移ったことはありませんから、ここでは古株の部類です。そしてこの分館にいると、見学者に館内を案内することがよくあります。学生さんを案内することもありますし、海外からの来客を案内することもありました。台湾から中国学と建築学で二つの研究者グループが一緒に来日した時、別々に各地を見学して、この建物で最後に落ち合ったということもありました。

―この建物にいることが、先生のご研究にも役立っているのでしょうか?

永田先生:この建物にいるということは、図書館の中に住んでいるようなものです。私の研究に用いる基礎的な資料も、ここでかなり揃いますから、恵まれた研究環境だと思います。

人文科学研究所分館書庫を案内する永田知之准教授(足元は採光用すりガラス)

(2023年3月 構成:一色 大悟)