Vol.5 京都大学大学院文学研究科附属文化遺産学・人文知連携センター(CESCHI)羽田記念館施設訪問(案内:大﨑 紀子 教務補佐員)

羽田記念館

本学第12代総⻑、羽田亨(はねだ・とおる)博士(1882-1955)(*1) の内陸アジア研究における偉業を顕彰し、後進に研究の場を提供することを目的として、三島海雲記念財団 (*2) や武田薬品工業株式会社などの寄付を得て1966年3月に設立された。以降、日本における内陸アジア研究の中心施設のひとつとして、国際会議、講演会、研究会、あるいは個人研究に利用されてきた。羽田記念館は創設以来「京都大学文学部附属内陸アジア研究施設」として親しまれてきたが、その後、研究対象地域が内陸アジアから徐々にユーラシア地域へと拡大されるにつれ、2004年4月に「ユーラシア文化研究センター(羽田記念館)」に改称され、現在は文学研究科附属の研究教育施設となっている。
1階には講義室・応接ホール・事務室、2階には閲覧室・研究室・書庫などが配置されている。なお、2009年以降、3回の改修工事と2回の耐震補強工事が行われている。

大﨑 紀子 教務補佐員
Ohsaki Noriko

今回案内してくださったのは、文学研究科の大﨑紀子教務補佐員である。大﨑さんと羽田記念館のつながりは深く、2003年にCOEプログラム「ユーラシア古語文献の文献学的研究」で研究員として羽田記念館に訪れるようになったのが始まりだという。その後、大学での非常勤講師の仕事を続けつつ、2005年4月から事務補佐員として週1回、2008年からは教務補佐員として週3回、羽田記念館に勤務するようになる。2006年に博士論文を提出し、学位を取得。その際用いた中期モンゴル語に関する資料はほぼ羽田記念館で入手されたものであるという。「初めて来たときからずっと羽田記念館で働きたかった」とおっしゃる大﨑さんにいろいろとお話を伺った。

*1:羽田亨
東京大学東洋史学科を卒業後、京都大学大学院に入り、講師、助教授を経て教授に就任。1938年、文学部教授であり京都帝国大学総⻑であった濱田耕作の急逝にともない、第12代総⻑に就任。戦時下の厳しい時局の中で、人文科学研究所、結核研究所、木材研究所などの設立に尽力した。
*2:三島海雲記念財団
財団の名称ともなっている三島海雲(1878-1976)はカルピスの創業者であり、羽田亨とは半世紀にわたる親交があったという。羽田亨との交流は海雲自身にも大きな影響を与えたようであり、財団設立時には次のような言葉を残している。「私のいう学術とは、自然科学のみでなく、それを支える“良識”すなわち人文科学を含むとする。/ 自然科学の重要性は勿論大いに認めるところであるが、自然科学といえどもその根底には矢張り人は如何に生きるべきかの哲学が充分に認識されて居らねばならぬ」。この言葉にある通り、現在記念財団では、食品に関する自然科学部門とアジア地域に関する人文社会学系部門(日本を中心とする研究は除く)の2つを助成対象としている。

2023年2月8日、私たちは京都市内の出町柳駅からバスに乗り、上賀茂神社近くの御薗橋(みそのばし)へ向かった。御薗橋から⻄へ200mほど進むと、住宅街の中に特徴的な外見の鉄筋コンクリート2階建ての建物が見えてくる。一見何だかわからないこの建物こそ、内陸アジア、中央アジア、⻄アジアに関わる貴重な文献が収蔵されている「京都大学大学院文学部附属文化遺産学・人文知連携センター(CESCHI)羽田記念館」(以下、羽田記念館)である。

施設利用について

最初に案内していただいたのは、1階にある講義室だった。プロジェクターや机が並ぶ小綺麗な部屋の壁には、2人の男性の肖像写真が飾られていた。

羽田記念館に飾ってある肖像画。左:三島海雲氏、右:羽田亨氏

大﨑さん:まず右側の肖像写真が羽田亨先生で、戦中戦後の時期に総⻑になられた方です。文学部出身の総⻑は羽田先生含めて歴代2人だけだったと思いますね。現在の羽田記念館の隣には、羽田先生の大きなお屋敷がありました。羽田邸には広大な庭もありましたが、現在はその跡地に9軒の一戶建てが立っています。

左側が三島海雲氏です。三島海雲は龍谷大学の前身・京都⻄本願寺文学寮の出身で仏教も研究されていたのですが、内モンゴルで酸乳に出合い、そのおいしさと健康効果を日本人にも広めたいとの思いからカルピスを発明された方です。

三島海雲と羽田先生とは同じ京都におられて非常に親しくなさっていたので、羽田先生が亡くなられた後、カルピスで蓄えた財をそのまま投じて三島海雲記念財団を作り、そのお金で羽田記念館を設立したという経緯があります。そこから先も、記念財団は羽田記念館に対して寄付を続けてくださっています。ありがたい限りです。

羽田記念館の大事な役割の一つが、国際会議、講演会、研究会の開催である。年2回の定例講演会に加え、コロナ禍前はユーラシア地域を対象とした研究会や国際会議が不定期に開催され、アジアの文化研究に関わる貴重な情報交換・発信の場となってきた。

大﨑さん:例えば少し前には、満洲語の文語講座というものを開催しました。満洲語は中国の清朝時代に使われていた言語で、この言語で書かれた資料が紫禁城に大量に保管、公開されています。一方で、それを読める人が少ないので講座にしているのですが、定員30人中20人が本土から受講しに来た中国人だったというように、ここでの講座は国外の人にとっても大事な機会になっていると思います。

――新型コロナウイルスの影響はありましたか?

大﨑さん:大きな影響がありました。コロナのために研究会も多くがオンラインになってしまい、羽田記念館を利用して開かれる研究会も減ってしまいました。また、以前はこの会場で講演会をした後に、机を並べ替えて懇親会をするというのが恒例でした。そこで講演された先生方とお酒を飲みながら話すというのがすごく良かったのですが、コロナ後は懇親会もやりにくくなってしまい、残念です。

――そういう場での雑談って大事ですよね。

大﨑さん:そうですね。オンラインになってから、海外からの参加者も増えて結果的に参加人数は増えたものの、ちょっとした雑談はしにくいので、新しいプロジェクトが生まれるとか、そこに加わるとか、そういったチャンスはごそっと減ってしまった気がします。

――対面で会議できる機会が早く戻ればいいですね。

大﨑さん:コロナは完全に終息したとも言えないですが、うち(羽田記念館)はぜひ使っていただきたいという気持ちはありますね。羽田記念館は辺鄙(へんぴ)な場所にあると思われるかもしれませんが、京都市外から来る人からすれば、京都駅からバス1本で来られるので、吉田キャンパスと比べても不便ではないと思います。またキャンパスで学外の方がwi-fiに接続しようとすると複雑な設定が必要ですが、羽田記念館ではパスワードを入力するだけで誰でも簡単にwi-fiが利用可能です。そういう意味では、外から来た人にも便利と言っていただける環境かと思います。

――一般の方の利用は可能ですか。

大﨑さん:現状、研究や講演会以外の利用に関しましては基本的にお断りしている状況です。というのも、本館の維持費に関しては京大の文学研究科がもってくれている状況なので。ただ、地域の方からは「何をしているところかわからない」という印象を持たれてしまっている状況なので、開放すべきかもしれないという気持ちはあります。

建物について

特徴的な外観の鉄筋コンクリート2階建ての建物は、京都大学工学部の増田友也教授(1914-1981)の設計である。イスラームの神学校(マドラサ)を模したと言われる建物には、無機質なコンクリートの壁に大きなアーチ状の開口部が備え付けられている。

羽田記念館の外観。鉄筋コンクリート2階建ての建物が、住宅街の中に堂々と構える。
創立当初の羽田記念館の写真。

大﨑さん:羽田記念館は、1階と比較して2階の天井高が高めに設定されているのですが、これは外から見た際にバランスがいい作りとなっていて、増田先生の建築家としてのこだわりが感じられます。記念館ができたのは1966年(昭和41年)だったので、当時としては結構おしゃれだったと思いますよ。

――増田先生というと、京都大学の体育館など設計された方でしょうか?

大﨑さん:そうです。京大体育館の他にも、工学研究科の建物や、鳴門市役所なども手がけられています。しかしそれらはコンクリートでできているものが多く、50年ほど経ったら建て替えになってしまうので、現存するのは今後限られてきてしまいます。そういう意味では貴重ですね。羽田記念館は、耐震補強を受けているのであと20年ほどは大丈夫と言われています。

――この建物自体は文化財などの指定は受けているのでしょうか?

大﨑さん:残念ながら受けていないです。

蔵書について

会議室の次に案内していただいたのは、2階にある収蔵庫だった。アーチ状の窓を背景に本棚が鎮座しており、その中に大量の本やコピー類が並んでいた。

2階の書庫。膨大な資料が保管されている。

大﨑さん:羽田記念館で利用が多いのが、コピー類や写本などです。例えば、本来ならイランやロシアまでコピーを取りに行かなければいけないような本やその複写がここには大量にあります。またアラビア語やペルシャ語文献の多くが未入力の状態だったのですが、2007年から2008年度にかけて文学研究科の図書館の方が頑張って登録してくださって、今では98%近くの図書がオンラインで検索可能になりました。写本など、大学の貴重書庫に入っているものも多くあります。

2階には、資料の閲覧スペースも用意されている。

羽田記念館には、羽田亨博士の専門分野に関わる漢・満・蒙・回・蔵(漢語、満洲語、モンゴル語、ウイグル語、チベット語)の諸典籍をはじめとし、内陸アジアあるいは⻄アジアに関連するチュルク語、ペルシャ語、アラビア語、インド語などで書かれた書籍、さらに欧米の研究書、雑誌など合わせて13,000点以上の蔵書があるという。

大﨑さん:羽田記念館の蔵書の中には、著名な学者の遺贈書や貴重な文献の複写本なども含まれています。例えば初代センター⻑であった庄垣内正弘(しょうがいと・まさひろ)先生などは、仏教学、チュルク言語学を中心とする図書を体系的に集めておられて、その一部を寄贈していただいたという経緯があります。また、京都大学文学部助手で羽田記念館に勤務していた安藤志朗氏の遺贈図書(全1,081点)には現在、入手困難な資料が多く含まれており、「安藤文庫」として⻄南アジア史学専修の学生を中心に多く利用されています。

続いて大﨑さんは、モンゴルで出版された資料を見せてくださった。羽田記念館にはモンゴル関連の雑誌・書籍などが1,200点あまり所蔵されているが、国内で唯一の所蔵館であるというだけでなく、本国でも入手困難との理由で国内外から閲覧希望があるという。

貴重な資料を前に、説明してくださる大﨑さん。

大﨑さん:例えばこちらの資料などは、もとは京大の附属図書館に入っており、蔵書印も押されていました。しかし、その後に蔵書を外されて羽田記念館に移されました。このため、今はどこの蔵書でもない状態です。このような資料に関しては、大学の所有とも言えないので、主に研究者の口コミで知られるようになっている状態ですね。これらの資料を使って研究したい、という研究者がいれば、保管場所として羽田記念館の名前を書いてもらっています。

――随分と字が薄くなってしまっていますね。

大﨑さん:そうなんです。入った頃と比べても随分と字が薄くなっている気がします。そのため、この資料も含めて貴重蔵書はデジタル化を進めているところです。これらの蔵書に関しては、入手経緯や、その文献が誰に属するのかということに関して、弁護士さんに意見書を作ってもらっています。やはり利用できないのはもったいないですから。ただ、例えば文学部のサーバーでは全く容量が足りないので、まだ公開には至っていないのが現状です。

――書庫の方にも膨大な資料がありますが、整理も大変ですね。

大﨑さん:実はわたしの勤務はあと最⻑3年なんですね。わたしのあとは専任の方ではなく、任期付の方が入る可能性が高いです。わたしはもう18年目になりますので資料の変遷についても知っていますが、継続性というか、そういうところは考える必要がありそうです。

――ありがとうございました。大﨑さんにとって、羽田記念館とはどういう場所ですか?

大﨑さん:亡くなられた先生方の資料など、他のところにおけないようなものを置く場所としての価値も大事にしてもらえたらと思っています。表立って公開してはいないものの、口コミで広がって見に来られる、また大学に置けないような少し訳ありの資料を保管して、自由に研究してもらえる、そういった場所だったらいいなと思っています。

基本情報

京都大学大学院文学研究科附属文化遺産学・人文知連携センター(CESCHI)羽田記念館
〒603-8832 京都市北区大宮南田尻町 13
Tel:075-491-6027
閲覧室開室日:月〜金曜日 午前 10 時〜午後 4 時(祝・休日、大学創立記念日を除く)
ウェブページ:https://www.bun.kyoto-u.ac.jp/ceschi/hkk-top/

参考文献
・京都大学文学研究科附属ユーラシア文化研究センター(羽田記念館)活動報告
・ユーラシア文化研究センターについて〜「京都大学文学部の百年」より〜
・三島海雲記念財団五十年史、第一回贈呈式挨拶

(2023年3月 構成:福田 将矢)