杉本 陽奈子『古代ギリシアと商業ネットワーク』

杉本 陽奈子『古代ギリシアと商業ネットワーク』

著者:杉本 陽奈子
山形大学人文社会科学部 講師

2017年京都大学大学院文学研究科博士後期課程研究指導認定退学

出版社:京都大学学術出版会
発行年月日:2023年3月31日

https://www.kyoto-up.or.jp/9784814004713.html

書籍紹介

古代ギリシア世界は、エーゲ海や地中海全域に広がる多数のポリスによって構成されていた。直接民主政を展開したアテナイの例がよく知られるように、各ポリスでは市民たちが政治や軍事の中核を担っており、土地所有権をはじめとする様々な特権を有していた。そして、従来のギリシア史研究はこうした市民の世界である「ポリス」の仕組みを解明することを主たる目的としてきた。

ところが、古代ギリシアは海を通じて人々が相互に結びつく世界でもあった。それゆえ、古代ギリシア世界の本質に迫るためには、ポリスのみならずその枠組みを越えたネットワークにも目を向けることが不可欠である。本書はこのような問題意識のもと、越境的な商業ネットワークとアテナイ社会との関係を明らかにすることを目的とするものである。

ここで確認しなければならないのが、当時のアテナイで商業活動を主として担っていたのは市民ではなく、ポリス外部から来た非市民たちであったということである。そのため旧来の学説は、商業活動が「アウトサイダー」にゆだねられていたために古代ギリシアでは経済が発展しなかったのだと説明してきた。近年ではこのような説明が修正されつつあり、ポリスがむしろ商業を促進しようとしていたことが明らかとなってきている。ただし、こうした研究はポリス側の態度については論じているものの、実際に商業活動を担っていた人々にはほとんど目を向けていない。それゆえ、本書では商業の担い手たちのネットワークに注目しつつ、彼らとアテナイ社会との関係を分析していく。

第1部では、商業従事者が本当に「アウトサイダー」なのかを検証するために、法的身分(第1章)、人間関係(第2章)、職業(第3章)という3つの観点から検討した。その結果、以下の点が明らかとなった。まず、銀行家には市民権が与えられていたのに対して、海上交易商人には市民権に準ずる特権すら与えられていないことから、両者の法的身分には大きな差がある。次に、銀行家は市民たちと協力を結ぶことで円滑な銀行経営を実現していたが、海上交易商人は市民たちとこのような関係を築いていなかった。さらに、銀行家は信用と結びついた職業イメージを積極的に利用することで業務上のリスクを軽減させることができたが、海上交易商人に関しては同様の状況を確認することはできない。

以上の検討結果からは、銀行家が社会と深く結びついており、それによって銀行経営が支えられていたことが浮かび上がった。その意味で、銀行家を「アウトサイダー」とみなすことには問題があるであろう。しかし、この説明は海上交易商人には当てはまらないことから、交易の仕組みについては別途考察する必要がある。

そこで第2部では、海上交易を支えた諸制度の運用実態について、顕彰決議(第4章)、司法制度(第5章、補論、第6章)、商船拿捕(第7章)という3つの観点から考察した。まず第4章で注目したのが、顕彰制度である。アテナイは大きな貢献をした商人を顕彰することで商業を促進しようとしていたが、適切な人物を顕彰するためには、市民の目が行き届きにくい国外の活動についても正確な情報を得る必要がある。こうした中でアテナイに情報を提供していたのが、同業者による推薦行為であった。

第5章では、商業裁判における証言について考察した。商業に関しては重要な証人の多くが非市民であるため、その信憑性をいかに担保するのかという問題が生じる。しかし、虚偽の証言を行うことは同業者からの信用を失うことにつながるため、こうした商人間の人間関係が偽証を抑制する役割を果たしていた。また、奴隷については主人が代わりに証言していたことを補論で示した。

第6章では、他国への穀物輸送を禁止した法に注目した。この法では一時滞在者に罰則を科すことができないため、法的効力が及ぶ範囲に限度がある。しかし、同業者が相互に監視することで、現実には法の対象外となる者も不正を行いづらい状況が成立していた。

第7章では、商船拿捕への対応を分析した。当時の国際社会では敵船以外を拿捕する行為が強く非難されたが、これだけでは不当な拿捕を完全に防ぐことはできない。実際には商人たちの自主的な協力関係によって拿捕が回避されていたのである。

以上のように、交易活動に関するポリスの諸制度はいずれもそれ自体では不完全であり、商業ネットワークによって補われる形で運用されていた。すなわち、商業活動はポリス社会と商業従事者との密接なインタラクションの中で初めて運営可能であったのである。このことをふまえるならば、古代ギリシア世界の構造についても従来の像を修正する必要があるであろう。つまり、ポリス社会を中心としてその周辺に「アウトサイダー」が存在していたのではなく、両者が互いに補い合うことで「制度」を共有するような世界が形成されていたのである。

山形大学人文社会科学部 講師
杉本 陽奈子