本宮 裕示郎『イギリスの自由教育論争:教養をめぐる科学と文学の相克』

本宮 裕示郎『イギリスの自由教育論争:教養をめぐる科学と文学の相克』

著者:本宮 裕示郎
滋賀県立大学人間文化学部人間関係学科准教授
2022年教育学研究科博士後期課程修了

出版社:東信堂
発行年月日:2023年3月25日

https://www.toshindo-pub.com/book/091845/

書籍紹介

昨今、教養ブームとも言い得るほどに、書店には「教養としての○○」や「教養のための○○」、「○○の教養」などを冠する書籍や雑誌が並んでいる。教養を身につける必要性を説くこうした動きは、近年初めて見られたものではない。古くは戦前の大正教養主義に始まり、最近の教養ブームに至るまで、教養はエリート主義や権威主義をまとう古めかしいものと批判を受けつつも、復権や再生といった言葉をともないながら、その価値が繰り返し説かれてきた。しかも、実用書や教養書といったジャンルの区別にも見られるように、教養に注目が集まる際には、過度な実用性や専門性に対する自戒の意味を読みとることができる。つまり、基礎的・基本的な知識としての教養を幅広く身につけることによって、実用・専門志向が狭めた視野を広げることが期待されてきた。

幅広い知識としての教養にさまざまな意味を込める傾向は、内容(「何を学ぶか」)よりも資質・能力(「何ができるようになるか」)に力点を置く近年の教育・社会動向に後押しされて、一層拍車がかかっているように見える。たとえば、「コンピテンシー型教養」や「二十一世紀型教養」といったように、問題解決力や批判的思考力など現代社会で必要とされる技能・能力と教養が結びつけられて正当化されている。そこでは、従来学校教育を通じて身につける学力として語られてきた技能や能力までもが教養に含まれることによって、教養の学力化とでも呼ぶべき事態、言うなれば教養の教養たる所以が失われる事態が生じている。

こうした事態を招いた要因の一つとして、教養が有してきた「幅広さ」という特徴が考えられる。日本語の教養という言葉は、英語のcultureやドイツ語のbildungの翻訳語であり、生涯を通じた人間形成という意味合いが含まれてきた。しかも、教養の起源とされるパイデイアでは、人間性の全体的・調和的な発展が望まれ、リベラル・アーツの祖型である自由学芸七科には、言語に関わる三科(文法、弁証法、修辞学)と、数と形に関わる四科(算術、幾何、天文、音楽理論)といった幅広い科目が含まれていたように、知識を幅広く得ることを通じて、人格を形成することが期待されていた。しかし、現代の日本では、教養の幅広さは博識と同義のものとして矮小化されて定着している。その結果、幅広さという名目でさまざまな意味が込められる一方で、人格形成とは切り離されてしまい、幅広い知識を得ることがいかにして人格形成に寄与するかを問う視点が失われてしまっている。

本書は、教養をめぐる日本のこのような現状を念頭に置きながら、19世紀イギリスでの議論を参考にして、幅広い知識を得ることと人格を形成することの関係を問うものである。ジェントルマンという言葉に象徴されるように、イギリスでは教養を身につけることは社交性を身につけることと同義とされてきた。そして、伝統的にエリート教育を行う場と見なされてきたパブリック・スクールやオックスフォード大学、ケンブリッジ大学では、社交的にふるまうための共通の知識基盤として、主に人文学に関する幅広い知識を得ることが不可欠とされてきた。しかし、19世紀に入り、科学の価値が認められるようになると、これまで当然視されてきた人文学の価値が問い直されるようになり、主として文学教育を擁護する立場と科学教育を推進する立場の間での論争、いわゆる自由教育(リベラル・エデュケーション)論争が展開されることになった。

本書では、C. ダーウィンによる進化論を擁護し科学教育の普及に尽力したT. H. ハクスリーと、名門パブリック・スクールであるラグビー校に変革をもたらしたT. アーノルドを父にもち文学教育の擁護に努めたM. アーノルドという、代表的な論者でありかつ論争を直接展開した二人の人物の主張・思想を主な手がかりにすることによって、幅広い知識を得ることと人格を形成することの関係を科学と文学という切り口から模索していく。序章では、ハクスリーとアーノルドに関する先行研究を概観し、第1章では、自由教育論争におけるハクスリーとアーノルドの位置づけを整理する。第2章では、両者の間で生じた論争をもとに、両者の教養概念の比較検討を行い、第3章と第4章では、道徳性の涵養という観点から、科学に関するハクスリーとアーノルドの思想的な変遷を確認する。第5章では、両者の教養概念をカリキュラム・レベルで比較検討し、終章では、本研究の成果を踏まえて、両者の教養概念をイギリスの自由教育の思想史上に位置づけ、最後に今後の課題を示す。本書が「教養とは何か」を考える一助となれば幸いである。

滋賀県立大学人間文化学部人間関係学科准教授
本宮 裕示郎