第一話「ウクライナ」

今回の「ウクライナ」の二篇を読ませてもらって感じたのは、もちろんその深み、その「ただならなさ」でもあるわけですが、それとともに強く印象に残ったのは、文学や歴史の研究者の書いた文章というのは、「時間を超えている」ということです。
この二つの文章、実は今年のゴールデンウィークの頃に書いていただいたものです。ウクライナ情勢について、色々な文章が毎日のように新聞などに書かれた時期かと思うのですが、その時点で拝読して、「これは 1 年後、10 年後、さらにそののちにも意味のある文章だ」と思ったことをよく覚えています。タイムリーに意味のある文章はもちろん大事です。しかし、こういう、「時事」に即しつつも、時を超えて「真理」を語る、あるいは「真理」を問う文章が、人間にとっては貴重であり、社会に力を与えるものである、ということを強く感じます。

フメリニツキーの謎——ウクライナ・コサックの神話と実像
小山 哲

ウクライナの人に「あなたの国の歴史上、重要な人物をあげてください」という質問をすれば、ボフダン・フメリニツキーはかならず上位に名前があがる存在である。ウクライナ・コサックの独立のためにたたかった英雄として、キーウの聖ソフィア大聖堂前の広場に騎馬像があり、多くの都市にフメリニツキー通りがある。紙幣にも彼の肖像が描かれている。

このようにウクライナ国民から親しまれているフメリニツキーだが、その実像には謎が多い。ウクライナ史学の創始者として大きな功績を残したミハイロ・フルシェフスキーは、フメリニツキーの生涯について「疑いのない事実に乏しく、伝説はきわめて豊か」と評している。とくにコサックの指導者となるまでの前半生については、わからない点が多い。ヘトマン(コサックの頭領)として権力をふるった後半生についても、指導者としてなにを目指していたのかをめぐって、歴史家のあいだで今なお論争が続いている。そして、その議論は、後述するように、今日のロシアのウクライナ侵攻とまったく無関係とはいえない。

フメリニツキーは 1595 年頃、ドニプロ川中流域で生まれた。父親の身分は貴族であるともいわれるが、確かなことはわからない。彼が生きた時代、今日のウクライナの大半は、ポーランド・リトアニア共和国の支配下にあった。ポーランド貴族は肥沃な土地を求めて東方に進出し、広大な所領を経営して富を築いた。同じころ、西ヨーロッパでは、海を渡った先にあるアメリカ大陸を「西インド」、アジアを「東インド」と呼んでいた。これに対して、ポーランド人は、陸伝いに東に広がる空間に自分たちにとっての「インド」があると考えていたのである。

しかし、この「インド」を安定的に支配するのは、ポーランド・リトアニア国家にとって容易なことではなかった。クリミア・タタールとウクライナ・コサックという統制のきかない 2 つの社会集団が存在したためである。イスラームのタタールはオスマン帝国の宗主権に服し、黒海北岸の拠点からポーランドに侵入して略奪を繰り返した。他方、正教徒のコサックはドニプロ川の中流域に本拠地をおき、領主の支配から逃れた農民を吸収して勢力を伸ばした。ポーランド王権は、コサックの軍事力を利用してタタールに対抗した。コサック軍を組み込むことで戦力は強化されたが、貴族並みの特権を認められないことにコサックは不満を抱いた。正教徒のコサックや農民たちの間には、カトリックのポーランド貴族の支配が強まることへの反発もあった。鬱積したこれらの不満や反感が 17 世紀半ばに爆発し、ウクライナで大規模な反乱が勃発する。1648 年にヘトマンに選ばれたフメリニツキーは、この大反乱の指導者であった。

イエズス会の学校で学んだフメリニツキーは複数の言語を理解し、ポーランド・リトアニ アの政治のメカニズムにもよく通じていた。タタールと同盟したコサック軍は西へと攻め 上り、一時はリヴィウの近くまで進出した。反乱軍を指揮する一方で、フメリニツキーは、 オスマン帝国、モルダヴィア、トランシルヴァニア、ロシアなど周辺の諸国に支援を呼びかけ、ポーランド王権に揺さぶりをかけた。さらにポーランド領内のカトリックの農民に働きかけて、領主に対する反乱を促す工作をおこなった形跡もある。

フメリニツキーがウクライナ史の英雄とされるのは、コサックを率いてポーランドに対する反乱を指揮したためである。ウクライナ国民史の語りにおいては、この反乱はウクライナ国家の独立をめざす長いたたかいの出発点に位置づけられる。しかし、コサック軍には単独でポーランドと戦いぬく力はなく、フメリニツキーは1654 年、ロシアとペレヤスラウ協定を結んでツァーリの宗主権に服した。この協定をめぐって、ロシア・ソ連の歴史学とウクライナ史学のあいだで論争が行なわれてきた。ロシア側はこの協定を「ロシアへの回帰」「ロ シアとの永遠の結合」を意図したものと解釈する。プーチンの歴史観もそのような解釈にもとづいている。他方でウクライナ史学は、ロシアとの協定は、さまざまな同盟の可能性があるなかで一時的に選択されたものにすぎないと解釈する。

「群れを離れた者」を意味するコサックが、「コサック民主主義」とも呼ばれる自由で平等な社会を形成していたことも、ウクライナ側の歴史意識を考えるうえで重要である。コサックは毎年ラーダ(評議会)を開いて合議し、指導者を選出していた。近世にこのような時代があったという認識は、19 世紀以降にウクライナ民族意識が形成される過程で、世襲のツァーリが専制的に支配するロシアとの違いを意識させる要因の1つとなった。

とはいえ、近世の身分制的な秩序のもとにあった「コサック民主主義」は、もちろん近代的な市民意識にもとづく民主主義ではなく、コサックの反乱は「ウクライナ民族の解放」をめざしていたわけでもない。歴史学的には、フメリニツキーが生きた世界については、あくまで近世のヨーロッパに特有の文脈のなかで理解する必要がある。

そのことを指摘したうえで、この文章を書くために関連する文献を読み返しながら、周辺諸国の指導者に支援を求めて積極的に使節や書簡を送るフメリニツキーの行動がゼレンス キー大統領の姿と重なる瞬間があったことを告白する。近世のポーランド・リトアニアを研究している筆者もまた、自身の同時代の文脈のなかにいるのである。

5 フリヴニャ紙幣に描かれたボフダン・フメリニツキー(出典:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/5/5b/5_hryvnia_2005_front.jpg)
ウクライナ・コサック(出典:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/71/%C2%AB%D0%97%D0%B0%D0%BF%D0%BE%D1%80%D0%BE%D0%B6%D1%81%D0%BA%D0%B8%D0%B5_%D0%BA%D0%B0%D0%B7%D0%B0%D0%BA%D0%B8%C2%BB.jpg)

小山 哲(こやま さとし)
京都大学大学院文学研究科教授

専門は西洋史、特にポーランド史。研究テーマは近世ポーランド・リトアニアにおける政治思想、政治文化、社会的コミュニケーションなど。主な著書に『ワルシャワ連盟協約(一五七三年)』(東洋書店)、共編著に『人文学への接近法――西洋史を学ぶ』(京都大学学術出版会)、『「世界史」の世界史』(ミネルヴァ書房)がある。

もっと知りたい人へ

小山先生と京都大学人文科学研究所准教授・藤原辰史先生の講義・対談を書籍化した『中学生から知りたいウクライナのこと』(ミシマ社)。
https://mishimasha.com/books/9784909394712/

小山先生の章「現代を生きる歴史家が、生きた過去に問いかける——『全体を見る眼と歴史家たち』」が収録された『歴史書の愉悦』(藤原辰史編、ナカニシヤ出版)。
http://www.nakanishiya.co.jp/book/b452048.html

ソ連の記憶と空間の終わり――映画『誓いの休暇』とウクライナ
中村 唯史

プーチン政権の国民動員、言論弾圧と情報統制が日々厳しさを増している。ロシアの知人とメールをやり取りする際にも、相手が監視対象となったりしないよう、表現に慎重を期さなければならないから、今では率直な意見交換も容易ではない。それだけに、まだ比較的自由だった 3 月の時点で 50 歳代の知人から聞いた「私はソ連時代に教育を受けたので、戦禍のウクライナの映像は子供の頃から何度も観てきました。でも今回違うのは、破壊しているのがナチ・ドイツではなく、ロシア軍だということなんです」という悲痛な発言が忘れられない。

あまり知られていないが、第二次世界大戦最大の被害国はソ連である。主にドイツと戦った4年の間に、最も控えめな統計でも全国民の約8%、1450 万人の命が失われた。これは太平洋戦争時の日本の死者 310 万に比してもはるかに多い。5月9日の祝日「勝利の日」(対独戦勝記念日)は、今日のロシアでは国威発揚の場となってしまった感があるが、ソ連期の市民にとっては何よりもまず追悼と鎮魂の時だった。

ソ連で死者がこれほどまでに多かったのは、国土の西部をナチに占領され、兵士だけでなく一般住民も殺戮されたためだ。独ソ戦というとレニングラードやスターリングラードが激戦地として知られるが、それはナチがソ連西部国境からこれらの街に至る地域、すなわち主に現在のウクライナとベラルーシを攻略、占領していたことを意味する。これらの地域では村が、街が焼かれ、捕えられた共産党員やパルチザンは処刑され、ユダヤ系住民はアウシュヴィッツ収容所などに移送され、ガス室で殺された。そのように世界最大の被害をこうむりながらも、ファシズムに対してレニングラードで抵抗を続け、スターリングラードで反攻に転じ、当時はソ連だったウクライナやベラルーシ、やがて東欧諸国を「解放」したことは、社会主義イデオロギーが権威を失った後も、ロシアの人々の誇りであり続けてきた。

前述の発言をした知人は、その後は沈黙を守っている。自国が侵略者となっている現実をなお見つめ続けているのか、あるいは目をそむけて、体制側のプロパガンダが作り出す物語に身を委ねただろうか。いずれにせよ、独ソ戦時を想起させるほどの惨禍をウクライナに今回もたらしているのが自国の軍隊であることのやりきれなさ、心の傷は深いだろう。

戦後のソ連で、社会や人々に深刻な痕跡を残した第二次大戦がテーマの小説や映画が数多く制作されたのは、自然なことだ。それらの中でも最も愛されてきたのは、おそらく1959年の映画『誓いの休暇』だろう。翌年のカンヌ映画祭で審査員賞を受賞した作品である。

「誓いの休暇」から

この映画には、凄惨な戦闘場面も、輝かしい英雄も出てこない。まだ20歳にもならない少年兵アリョーシャがドイツ軍の侵攻にパニックになりながらも2台の戦車を撃破したことのご褒美に、故郷のサスノフカ村に一時帰省を許される。

列車を乗り継いで故郷へ向かう間に、アリョーシャは多くの人々と出会っては別れる。仲の悪かった妻のもとに帰るべきどうか躊躇する傷痍軍人を励ましたり、ゆきずりの兵士から託された手紙をその妻に届けたり(妻はしかし別の男性と暮らしている)、一時道連れとなった少女シューラに恋心を抱いたりする。結局、彼らのために多くの時間を費やしてしまったアリョーシャは、サスノフカにたどり着いたその足で取って返さなければならない。野良仕事の途中だった母親を抱きしめると、彼はまた前線へ戻っていく。

サスノフカは、現在のウクライナ共和国北部、ロシアとの国境からわずか5キロほどの地点に実在する村だが、映画中の台詞から判断して、アリョーシャはベラルーシの前線からロシア南部を経由して帰省しているようだ。今日では分断されている空間が、当時はひと続きのものだったのである。

アリョーシャが旅の途中で出会う人々の中には、コーカサス系の顔もあれば、ウクライナから戦火を逃れてきた一家もいる。また、彼の母親は南部訛りのロシア語で話しているが、その発音は、明らかにウクライナ語に通じる特徴を示している。『誓いの休暇』は、イデオロギー面では厳しく一元化されていた一方で、国境が相対化され、多数の民族が共存し、さまざまな言葉が行き交っていた80年前の社会を反映している。

『誓いの休暇』はモスクワ・フィルム社制作だが、監督のグリゴーリー・チュフライは、ウクライナ南部のメリトーポリ市に1921 年に生まれ、その前半生をマリウポリ、キーウなどで過ごした人だ。実父はユダヤ人、継父はウクライナ人、母親もその姓から明らかに非ロシア系だが(監督は母親の姓を継いだ)、彼自身はロシア国籍だったようだ。それは多言語・多民族社会だったソ連では、必ずしも珍しいことではなかったのである。

だが、そのような社会は、1991年末のソ連解体を機に崩れ始めた。独立した15の国家は、その後の30年間、それぞれの領域内の言語・文化の画一化への傾向を強めてきた。ロシア中心主義を推し進めてきたプーチン体制も、ロシア語の地位を格下げする政策をとってきたウクライナの歴代政権も、その例外ではない。

グリゴーリー・チュフライ監督

ウクライナは元来、多様な民族や集団が共存し、さまざまな境界が交錯する地域だった。今でもロシア系が人口の2割近くを占め、ロシア語を母語とするウクライナ人の割合も高い。だが、そのような知人のひとりが先日、「今回の侵攻に対する抵抗の中で、ウクライナは独立後初めて一つの旗の下に団結している」と発言しているのを聞いた。兄弟民族の絆を強調しながら暴力で屈服させようとする今回のロシア軍の侵攻は、ウクライナ社会の多様性に対する最終的な打撃となるかもしれない。

参考文献

服部倫卓・原田義也編著『ウクライナを知るための 65 章』明石書店、2022 年(三刷)。
ネール・ゾールカヤ『ソヴェート映画史:七つの時代』扇千恵訳、ロシア映画社、2001 年。

中村 唯史(なかむら ただし)
京都大学大学院文学研究科教授

専門はロシア文学・ソ連文化論。研究テーマはロシア文学における自伝的言説とソ連期の詩学、多民族文化など。
主な共編著に『ロシア文学からの旅』(ミネルヴァ書房)、『再考ロシア・フォルマリズム』(せりか書房)、主な訳書に『二十六人の男と一人の女 ゴーリキー傑作選』(光文社)ほかがある。

もっと知りたい人へ

『現代思想』2022 年 6 月臨時増刊号「ウクライナから問う:歴史・政治・文化」
中村先生の論考「実体化する境界:『ロシアーウクライナ』の二項対立の図式をめぐって」が掲載されています。
http://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=3682

中村先生の訳・解説によるバーベリ『騎兵隊』(松籟社)
現在のウクライナ北西部で 100 年前にあった戦争の中でのコサック、ポーランド、ユダヤ人の相克を題材とした短編集。
http://www.shoraisha.com/main/book/9784879844156.html