京大人社通信対談 第一話「ウクライナ」

京大人社通信第一話では、「ウクライナ」をテーマに、小山先生(ポーランド史)と中村先生(ロシア文学・ソ連文化論)からそれぞれ下記2編をご寄稿頂きました。

・小山哲「フメリニツキーの謎―ウクライナ・コサックの神話と実像」
・中村唯史「ソ連の記憶と空間の終わり―映画『誓いの休暇』とウクライナ」

これら2稿をご執筆頂いたのが2022年5月、Webページに公開されたのが2022年12月のことですが、記事公開から更に8か月が経過した今なお、ウクライナは先が見えない状況にあります。歴史研究者/文学研究者として、また一人の市民として、現状に対してどのような眼差しを向けるか、いかなる態度をとるか、お互いの文章を読み合っていただいた上で自由に対談をして頂きました。

(2023年9月29日公開/横江智哉=構成)

フメリニツキーをめぐって

中村 私の研究対象にイサーク・バーベリ(1894-1940)というユダヤ系のロシア語作家がいて、『騎兵隊』(1926)という短編集を残しています。その中の一編に「コジンの墓地」という作品があります。17世紀にフメリニツキー麾下の現在のウクライナ地域出身のコサックに虐殺されたユダヤ人とその子孫の墓碑銘の文章だけで、ほとんど全編が成り立っているような掌編です。また、ポーランド出身で米国に亡命したイディッシュ語作家にアイザック・バシェヴィス・シンガー(1903-1991)という人がいますが、彼もまたフメリニツキーのユダヤ人虐殺の時代をモチーフとした歴史小説を残しています。

ユダヤ人にとって、フメリニツキーとは残酷な虐殺者の代表ともいえる人物であり、彼が率いたコサック軍団とは虐殺の担い手でした。たとえば「ユダヤ」や「コサック」というフィルターを通してみることによって、ポーランドやロシア、ウクライナと言った「国家」や「民族」の枠組みだけでは見えてこないものが見えてくるように思います。

小山 人社通信への寄稿でも、ウクライナ史学とロシア史学でフメリニツキーの行動に対する意味づけの違いに触れましたが、17世紀という時代にはこの二項対立だけでは捉えきれない側面があります。中村先生がおっしゃったユダヤ系住民の扱いもその一つで、この時期にフメリニツキー率いるコサックによる虐殺で万単位の犠牲者が出たと考えられています。「ウクライナ史学対ロシア史学」という二項対立のみならず、ユダヤ史等、別のファクターから考える必要があります。

中村先生の文章を読んでいて興味深かった点は、ウクライナという地域を考える上で気を付けるべき観点が示唆されていることです。映画『誓いの休暇』の監督グリゴーリー・チュフライ(1921-2001)は、多民族国家としてのソ連を体現するような複雑な背景をもっており、また、二項対立では捉えることのできない、ウクライナという地域の多元性・多層性を象徴するかのようです。

ソ連・ポーランド間の人的交流

中村 実は、ソ連初期はポーランドとの人的な交錯が盛んな時期でもありました。例えば、ユーリー・オレーシャ(1899-1960)は没落したシュラフタ(ポーランド貴族)の出自を持ち、ポーランド語を母語とする作家ですが、ウクライナ出身で、ロシア語で執筆しました。また、ロシア・アヴァンギャルドを代表する芸術家のカジミール・マレーヴィチ(1879-1935)もウクライナ出身のポーランド人で、彼はロシア語で論文を書いているのですが、非常にポーランド的な要素が強く、ロシア人に読ませても難解な文章だと言います。一方で、戦間期のポーランド文学を代表する作家の中には、ウクライナ出身者が少なくありません。

第一次世界大戦以降、ポーランドやチェコスロヴァキアと言った中東欧諸国は「国民国家」を作り上げることにある程度は成功しましたが、ロシア帝国、そしてそれを引き継いだソヴィエト連邦はそのような「国民国家」とはならず、多民族国家であり続けました。特にソ連は「社会主義イデオロギー」を各民族の上に置いて統治する、という形をとりました。それゆえに、「○○人」といった民族アイデンティティや国境を越えた人の動きがあったのです。

ポーランド人から見たロシア・ソ連

小山 中村先生が仰るような人的交流があったことはその通りです。しかし、ポーランド側からすると、そうした国境を越えた移動は必ずしも彼らの思い通りだったとは言えないのが事実です。17世紀まではポーランドの方がロシアに対して優勢な時期もありましたが、18世紀以降、急速に強大化していくロシアはポーランドにとって脅威であり、どう向き合っていくかが課題となっていました。

ソ連成立後の文化人交流にも複雑な側面があります。確かに、共産主義やロシア革命の理念に共鳴してソ連に渡ったポーランド人もいますが、「不本意な移動」を強いられた例も少なくありません。例えば、1939年の第二次世界大戦の開戦時、ポーランドはナチス・ドイツとソ連の双方から侵攻を受けました。ソ連にとって第二次世界大戦の記憶とは独ソ戦に尽きると思いますが、ポーランドにとってみれば、少なくとも独ソ戦が始まるまでは、ナチス・ドイツだけでなくソ連もまた侵略者だったのです。

その際にソ連の捕虜となったポーランド軍は、ソ連国内各地の収容所に送られ、その一部はカティンの森などで虐殺されます。しかし、1941年に独ソ戦が勃発すると、ポーランド人捕虜は対独戦に利用すべく急遽釈放されます。こうした状況は、ポーランド人にとり非常に複雑で、受け入れがたい状況だったと思います。結局、彼らは二つの軍団を組織するのですが、そのうちの一つが「コシチューシコ軍団」と呼ばれ、ソ連の赤軍と共に東部戦線でドイツ軍と戦う軍団でした。もう一つの軍団は「第二軍団」と呼ばれ、ヴワディスワフ・アンデルス(1892-1970)を始めとするソ連と共に戦うことを拒んだ将校たちにより組織され、ソ連からイラン~パレスチナを経由して地中海を渡ってイタリアに上陸し、西部戦線で英米軍と共に戦いました。彼らの多くは戦後、ソ連の衛星国となったポーランド人民共和国には戻らずに亡命しています。

ポーランド人のこのような「移動」は決して自由意志によって生じたものではなく、ある種の非対等な国家間の力関係によって生じた理不尽なものでした。こうした経験の積み重ねが、現在ウクライナで起こっている戦争に重なって見えるからこそ、ポーランド市民と社会は国家レベルのみならず、草の根レベルでもウクライナからの難民を支援するのでしょう。

対談風景

「国家」という枠組みを超えて

中村 文学研究者として、私はこの対談でなるべく、たとえば「ソ連対ポーランド」というような、二項対立的な枠組みでは語りたくないと思っています。ポーランドという国から見ると、先ほど小山先生がおっしゃったような事案が起こったのは間違いなく事実ですが、そのようなことは、残念ながらいつの時代にも、世界のあらゆる場所で起こっており、それは立場によって、さまざまに語ることができてしまうからです。ソ連から見れば、第二次世界大戦とは国民の10~18%が犠牲になった大惨事です。日本の犠牲者が当時の全人口の3%ですから、いかにソ連が壊滅的な被害を受けたかが分かります。ソ連が侵略者だったことは事実だと思いますが、そのことを強調する結果として、この膨大な数の死者たちのことが忘却されてしまわないでしょうか。もちろん、立場を変えれば、これとは反対のこともまた言えるのです。

ソ連時代の作家にヴァシーリー・グロスマン(1905-1964)という人がいます。彼はユダヤ系の出身で、初期には社会主義リアリズムに忠実な作風でした。独ソ戦勃発後は従軍記者として活躍したのですが、戦場となったウクライナでユダヤ人が虐殺されていて、それにウクライナ国民が関与しているということが分かってきて、戦後そのことを公表しようとして抑圧されてしまった人物です。このようにソ連国内でも色々なことが起こっていたのですが、「国家」という枠組みで物事を見れば、それぞれの公的な立場から自分たちを正当化する歴史言説を作り上げることができてしまいます。

文学者として、「国家」という枠組みを外して語ることは可能か、という問いを常に考えてきましたが、2022年2月(のロシア権力によるウクライナ侵攻)以降、急速にそれが難しくなっているように思います。もちろん、今プーチン政権がやっていることは到底容認できるようなものではなく、私はロシアの権力者の側に立って語るつもりはさらさら無いですが、その一方で、今の日本で流布している言説にも違和感を持たざるを得ません。「ロシア対○○」と言うけれど、ロシアってそんなに一つなのかな、と。

小山 もちろん中村先生の仰る通り、二項対立的な図式に陥ることはよくないと思います。その一方で、それぞれの時代や局面で発生した事件は取り返しのつかないものであり、歴史学者としてそのような過去に発生した事件を研究しない訳にはいかないのです。冷戦期のポーランド、ひいては20世紀の東欧における歴史学においては、特定のテーマについて語ることはタブーでした。カティンの森事件もその一つです。カティンの森で虐殺された将校は多数に上るため、ポーランド国民で犠牲となった将校を親類に持つ人は少なくなく、ファミリーヒストリーを通じてそのような虐殺があったことは多くの国民に知られていましたが、それを口に出すことはタブーでした。

このような歴史上未解決の問題、特に何らかの事情によって追求することがタブーとされてきた問題をポーランド語で「白いしみ(ビャワ・プラマ)」と呼びます。カティンの森事件に関して言えば、冷戦が終結し、社会主義体制が解体されてからようやく議論の俎上に載せることが可能になりました。ポーランド史に限りませんが、こうした「白いしみ」はなるべく無くしていくべきだと思っています。

そうした「白いしみ」に取り組み、「国家」という枠組みを越えるための試みとして、近年では複数の国の歴史研究者が集まって共同研究を進める例も出てきています。例えば、ポーランドとドイツは中世に遡って複雑な二国間関係を抱えてきましたが、社会主義時代から互いの歴史教科書について意見を述べ合い、体制転換後も共同研究が進み、最終的にはポーランドのEU加盟後、両国で共通の歴史教科書を作りました。

また、同様にポーランドとウクライナの間でも共同で歴史研究を進める試みがありましたが、こちらはポーランド・ドイツ間ほどうまくいきませんでした。というのも、第二次世界大戦期の事実認識に大きな齟齬があり、事実関係の議論だけでも10年間を要しました。残念ながら、両国の学者間で結論の一致を見ることなくこの試みは終わってしまいましたが、一応の成果として、ウクライナの学者が書いた本がポーランド語に翻訳されて、ポーランドで出版されました。こうした取り組みも、何もやらないよりはましだと思います。互いの主張に納得している訳ではないですが、どこが嚙み合っていないのか、議論の対象は何か、ということが初めて明らかになるわけですから。

中村 そうした試みは世界中のあらゆるところで行われる必要があると思います。例えば、日韓や日中の間でも。現在ウクライナで起きていることを、日本の、特に第二次世界大戦中の歴史と対照しようという言説は、この1年半のあいだ、あまり現れていないように思います。現在の日本に、そうした想像力が欠如していることを危惧しています。過去に起きたこと、現在起きつつあることは、原則として忘れられることなく全てが語られるべきですし、それは世界中のあらゆる地域、あらゆる時代について徹底されてほしいと思います。

小山 日本に住んでいる人がウクライナでの戦争を見る際に、本土空襲や広島・長崎の原爆投下、沖縄戦を想起する人が多いと思います。しかし、真に想起すべきは朝鮮半島、中国大陸、東南アジアで日本が行なった植民地支配・侵略と、それに対する現地の人びとの抵抗ではないでしょうか。日本人にとっては苦しい見方ですが、必要な観点だと思います。

中村 賛成です。私もそう考えます。そのうえで、「全てが語られるべき」と言うとき、日本の個々の人びとがどのように苦悩し、どのような運命に遭遇したかもまた、現地の抵抗した人々と同じように、やはり忘れられるべきではないとも思うのです。そうでないと国別、民族別という陥穽にはまってしまいかねないからです。

研究者として「現在」を語るということ

中村 その一方で、現在起きていることについて、学問的言説とジャーナリズムをどのように使い分けるか、今をどのように語るか、学問としてどのように対応するか、という問題は難しいと思います。

小山 現在を語るときに、研究者として言えることと、一市民として言うべきことのあいだにはしばしば大きな隔たりがあります。研究者として語るときには禁欲的にならざるを得ず、「(学術的には)ここまでしか言えない」ということは多々あります。とはいえ、研究者としての自分と、一市民としての自分を常に厳密に区別できる訳ではありません。

直近に、『講義 ウクライナの歴史』(山川出版社)という本を共著で出しました。朝日カルチャーセンターで行った講義を基にしているのですが、正直な話をすると、研究者としての立場を考えると複雑な側面があります。ウクライナに関する書籍が世界中で大量にあふれる中で、この本が長く読み継がれるものになるのか、すぐに消費されてしまうのか。今起こっていることとその背景を知りたいという社会の欲求、それに応えるのは研究者の責務であると思う一方で、歴史研究は研究対象と時間的な距離が空いていることを前提に、集められるだけの資料を集め、様々な角度から検討を重ねていくものであり、それができない現在を語るということはリスクのある行為です。先述の『講義 ウクライナの歴史』が社会的にどう読まれることになるのかは分かりませんが、歴史研究者としては現在進行中の出来事を語る立場にはない、というのが本音です。

中村 現在進行形のことを学術的に語れないのはその通りです。現在起きている事態を語ろうとするときに、過去との因果関係で語りうる側面と、自らの主体的選択によって語る側面とがある。現在について語るときには、私はどちらかというと後者を重視しています。私が危惧しているのは、ウクライナであれ、ロシアであれ、欧州であれ、現在の立場を語るための道具として過去を利用しがちなのではないか、そのことによって、現在に合わせる形で遡って歴史が再構築されてしまうのではないか、そうした恣意性です。私としては、過去の延長としてではなく、現在進行形の「今」を見た時に何が言えるのか、ということを考えます。その意味で、私が現在について語るときには、あまり「学者」として発言しているのではないかもしれません。「市民」としての倫理的な選択がいかにあるべきかの方を強く考えています。

過去の歴史を綿密に探れば、そこから現在を説明したり、あるいは未来の予測をしたりできるというのは違うのではないかと思っています。人間の歴史は数式や因果関係では説明がつかない。その時代時代の人々の、いつも合理的とは限らない意志が関わっているからです。因果関係で説明しようとすればできてしまうが、そうではない形で如何に歴史的な語りをしていくか、というのは困難だが重要な課題だと思います。

小山 「現在」の立ち位置によって、その都度新たな「過去」に関する語りが恣意的に創出されたり再生産されたりすることは問題と考えています。近年、そのような問題性を認識し、自覚的になる必要があると考えている歴史学者が増えてきたように思います。こうした「語り」の(再)生産に関する問題は、歴史学の中においても開かれた議論が必要だと思います。

ソ連出身のウクライナ人で、現在はハーバード大学の研究所で研究活動をしているセルヒー・プロヒー(1957-)という著名なウクライナ史研究者がいます。彼はThe Gates of Europe: A History of Ukraine(2015)、Ukraine and Russia(2008)といった著作を残しており、私も彼の著作から多くを学びました。彼はウクライナ史を、ウクライナという「空間・地域」の歴史として捉えるべきで、特定のエスニック・グループの歴史として捉えるべきではないと主張していました。それは私も非常に共感するところです。

そのプロヒーが、ロシアのウクライナ侵攻後にThe Russo-Ukrainian War: The Return of History(2023)を出版しました。その序文で、ロシアの侵攻が始まった日、普段はラフな服装なのに、その日からきちんとした格好をするようになった、と述べています。ウクライナの歴史家として、ウクライナ人として見られるのだ、それにふさわしい身なり振る舞いをしなければならない、と感じたのだそうです。彼ほどの歴史学者であっても、戦争が始まるとこうなってしまうのか……と思いました。

中村 「ウクライナ史の専門家」であるということと、「ウクライナ人」であるということが、去年の段階で彼の頭の中で直結してしまった、ということでしょうか?

小山 その通りです。ある国家(ネーション)を背負ってふるまわなければならない、という心境に突然なったようです。

中村 それが去年から日本を含む世界中で起きていることで、まさに私が危惧していることであり、率直に言って恐怖を覚えています。私は、現在に向かっては「市民」として対する傾向が強いように思いますが、過去を扱う「学者」としては、その時々の状況に応じて立場を変えるべきではないと感じています。「学問」や「研究」においては、研究対象と同一化することなく、距離を置くことが重要です。もちろん、現在起こっていることは、これまでにない新しい現象ですから、それに合わせて新しい言説が生まれてくるのは当然だと思いますが、しかしそれを語る視点や立場は、やはり常に対象から距離を置いたものでなくてはならない。ウクライナ侵攻の前と後で自らの立場を変えた研究者は少なくありませんが、自分は研究者としては意識的に変わる必要はないと思っています。

日本で外国の歴史・文化を研究するということ

小山 敢えてお聞きしたいのですが、我々は日本を拠点としながら外国のことを研究していますが、そのことに由来する研究者としてのスタンスや可能性、あるいは制約についてどうお考えですか。つまり、ロシア語を母語としない人間がロシア文学を研究する、ポーランドという国家に所属していない人間がポーランド史を研究するということの意味と言いますか。

中村 ロシアという文化体系から見たロシア文学研究と日本という文化体系から見たロシア文学研究の両方があって良いと思っています。もちろん、ロシアにいる方が、研究者と繋がり易い、文献へのアクセスが容易という点で有利な側面はあると思いますが、両者は本質的に対等であると考えています。私は自分のことをあくまで「ロシアをフィールドに文学に取り組んでいる」と認識していて、「ロシアに取り組んでいる」つもりは無いです。20世紀のロシア/ソ連の思想家バフチンは晩年に「異言語・異文化を勉強する時にそこに同化してしまうと、母語と外国語の2つあった立場が1つになってしまう。その分だけ世界が貧しくなってしまう」というようなことを言っていますが、まったく同感です。

小山 自分は長らく西洋史研究室に所属していますが、私が学生だった頃は留学が難しく、欧米の研究者の成果を紹介するということも仕事の一つでした。しかし、今は格段に留学に行きやすくなり、現地の研究者との交流も容易になりました。その一方で、「日本の西洋史学者であることの意味」が問われるようになったとも思います。研究環境や条件が、現地の研究者にかなり近づいてきて、論文も日本語のみならず、現地語や英語でも書くようになりました。

その一方で、現地の研究者と完全に一緒になるとも言えないのは事実です。ポーランドがEUに加盟した際、ポーランドのある文学研究者は「私たちは、私たちの死者と共にヨーロッパに入る」と表現しました。彼らは、現在のポーランド人と過去のポーランド人(死者)の両方を含む、ある種の「共同体」の中で、その根っこを踏まえて研究しているわけです。日本人である私には「私たちの死者と共に」とは言えません。日本からポーランド史を研究する私は、認識論的にというよりも、実存的な意味で、「いま生きている私たちと、私たちの死者が共有する過去」としてポーランドの歴史を語る研究者とは、異なる地平に立っているのです。その意味で、私は先述のプロヒー氏のふるまいを批判する立場にはないと思っています。

中村 私もプロヒー氏を無条件に批判している訳ではないです。今回の戦争に関して言えば、日本という国家に否応なく帰属している私と彼らとでは、本質的に立場が違う。いざ自分が彼らと同じような境遇に置かれた際にどんな行動をとるかは、その時になってみないと分かりません。私は、自分が国家のプロパガンダに乗せられたり、世間の主流に無批判に染まったりすることはないだろうという程度の自負はあります。しかし、そのような自分の思考を、逮捕などの弾圧、職を失うなどの危険に直面してなお、声を大にして言うことができるか――それは、そういう事態になったときでなければ分からない。しかし、自分としては、できる限り研究者として一貫した立場でありたいと思っています。

小山 せっかくの機会なので、もう一つだけお伺いしたいのですが、私はポーランド史の立場からポーランド語を使って、中村先生はロシア語を使ってウクライナを見られていますが、どちらもウクライナ語を駆使して、ウクライナそのものを対象とした地域研究をしているわけではありません。実際、ウクライナをフィールドにしている日本の研究者は非常に少ない。この状況が、ある意味日本の人文学の現状を反映していると思います。このことについて、何かお考えはありますか。

中村 そもそも、ロシアや東欧のことを研究する学者があまりにも少ないと感じています。日本の地域研究全体に言えることですが、米国などと比較しても所謂「マイナー地域」の研究者層が薄い。米国の場合ですと、そうした「マイナー」な国々からの移住者コミュニティが存在し、また優秀な留学生が出身地域の歴史や文化の研究者となって定着する場合も多いため、「マイナー地域」であっても研究の層が厚い、という事情もあるのですが。日本の場合、元々情報や人的交流の多い地域の研究ばかりが脚光を浴びがち、といった問題もあります。日本で「マイナー地域」の研究をしている人は、ある意味決意してやっているわけです。ですが、そうした人たちが少しずつでも常に存在していることは心強い。彼らが活躍できる枠組み、「マイナー地域」の研究者がどんどん出てくるような体制を、アカデミアの内と外に作っていかないといけないと思います。

(こやま・さとし/ポーランド近世史)
(なかむら・ただし/ロシア文学・ソ連文化論)
――2023年8月23日、京都大学にて収録

小山 哲(こやま さとし)
京都大学大学院文学研究科教授

専門は西洋史、特にポーランド史。研究テーマは近世ポーランド・リトアニアにおける政治思想、政治文化、社会的コミュニケーションなど。主な著書に『ワルシャワ連盟協約(一五七三年)』(東洋書店)、共編著に『人文学への接近法――西洋史を学ぶ』(京都大学学術出版会)、『「世界史」の世界史』(ミネルヴァ書房)、『講義 ウクライナの歴史』(山川出版社)がある。

中村 唯史(なかむら ただし)
京都大学大学院文学研究科教授

専門はロシア文学・ソ連文化論。研究テーマは近現代ロシア語文学、ソ連期の詩学・多民族文化など。主な共編著に『ロシア文学からの旅――交錯する人と言葉』(ミネルヴァ書房)、『自叙の迷宮――近代ロシア文化における自伝的言説』(水声社)、『再考ロシア・フォルマリズム』(せりか書房)他、主な訳書に『二十六人の男と一人の女 ゴーリキー傑作選』(光文社)、『騎兵隊』(バーベリ作、松籟社)他がある。