若手出版助成事業

松枝 拓生『見ることを学ぶ ジル・ドゥルーズの〈紋切り型との闘い〉』

2025.08.16

著書:『見ることを学ぶ ジル・ドゥルーズの〈紋切り型との闘い〉』
著者:松枝 拓生(大阪大学大学院人間科学研究科 助教)
出版社:春風社
発行年月日:2025年3月28日

書籍紹介

 私たちは概念を用いてものを考え、言葉でそれを表現している。また、身のまわりの物事を捉え意味づけるときにも、自分がすでに知っている概念やカテゴリに依拠している。つまり、自分の生きる世界にふれ、それとの相互関係のなかでものを考え、世界を意味づけようとするとき、私たちは既成の解釈枠組みにとらわれるほかない。しかし、その状態に安住していては、世界をありのままに捉えることはできないのではないか。
 本書は、ドゥルーズの哲学が、まさに今述べたような問題意識に駆り立てられているのだと捉え、ドゥルーズの哲学を検討する本だ。画家フランシス・ベーコンについて論じた著作『感覚の論理学』に登場する「紋切り型との闘い」というフレーズは、既成の解釈枠組みにとらわれた状態から抜け出そうともがく、私たちの思考の実践を言い当てるものなのだ。(ちなみに「紋切り型との闘い」というフレーズは、D・H・ローレンスがポール・セザンヌの絵画制作を評して述べた言葉を引用する形で提示されている。慣例的な絵画表現に安住せず、りんごのありのままの姿に迫ろうとしたセザンヌ。その姿勢を継承する画家として、ドゥルーズはベーコンを評価している。そしてその姿勢に、ドゥルーズは共感しているのである。)
 それでは、ドゥルーズは私たちが「紋切り型との闘い」をどのように繰り広げることができると考えているのだろうか。その闘いを実践する糸口となるのが、ドゥルーズが主著『差異と反復』などで論じている「学習(apprentissage)」の経験なのだと本書は考える。
 ドゥルーズの論じる「学習」は、学校教育とはなんら関係がない。むしろ、ドゥルーズはフェリックス・ガタリとの共著『千のプラトー』において学校教育批判を行っている。学校教育において教師が行っていることは、子どもたちに世界を捉えるときの座標軸——これはつまり解釈枠組みのことだと考えてよいだろう——の強要であり、子どもたちは学校で鋳型にはめられるのだ、というのである。
 ドゥルーズが提示する「学習」は、その方法をマニュアル化することのできない全人格的で受難や試練と形容しうるような過酷な経験である。自分がそれまで依拠してきた解釈枠組みでは捉えきれないような異質な物事と出会うことで、既成の解釈枠組みを放棄することが強いられるのだ。できあいの概念やカテゴリを当てはめてわかったつもりになることはできない。自分の無知がさらけ出されることを受忍しながら、素手で目の前の異物と格闘するほかないのである。
 そのようにして出会った異物に関わるとき、私たちは過去の自分自身がどれほどできあいのフレームにとらわれていたのか——あるいは、そのフレームが差し出してくれるわかりやすくパッケージ化された「理解」に安住してきたのか——ということを直視せざるをえなくなるだろう。自分の不出来を認識することが強いられる経験だが、実はここにこそ「紋切り型との闘い」の鍵があるのではないか。つまり、異物と素手で格闘し、そしてこのように従来の自己のあり方に気づくときには、一時的にでも人は既成の解釈枠組みにとらわれた状態から解放されているはずなのである。そして、この気づきを経たならば、紋切り型のものの見方がどれほど自分の視野を閉ざす力をもっているのか、その力の強力さに対する警戒感を獲得することができるのだ。
 ただし、性急に次のように結論づけるのはやめておこう。こうして「学習」の経験をくぐり抜けたならば、人はついには紋切り型のものの見方にとらわれなくなるのだ、と。
 ドゥルーズは、思考する能力をすばらしい力に恵まれた能力だとみなす捉え方が、数々の哲学者を籠絡してきたのだと考えている。この捉え方は、「思考のイメージ」と呼ばれている。「紋切り型の枠組みにとらわれなくなる(もはや以前の状態には戻らない)」という進歩的な捉え方は、最終的には思考能力が既成の解釈枠組みからの完全なる自由を達成するというバラ色の(現実離れした)光景を描いている。つまり、「思考のイメージ」に毒されているのだ。「学習」について考える私たちの頭のなかにも、ありふれていて、しかしだからこそ染みついた解釈枠組みが根を張っているのである。
 なじんでいてわかりやすいものの見方を、私たちはそう簡単に手放すことはできない。ゆえに、それは紋切り型となって私たちに取り憑いて離れない。それらに抗うための糸口を考えるその渦中においてさえ、私たちは紋切り型に絡め取られそうになるのである。
 本書で読み解いていくドゥルーズの思想は、このようにして徹頭徹尾、紋切り型の根強さに警戒するよう私たちに訴えかけてくるだろう。その輪郭を照らし出していく本書の道程を、楽しんでいただけたら幸いである。