永盛 明美『眼差しの詩学―トマス・ハーディに見るジェンダー表象の一側面』
2025.08.16
著者:永盛 明美(京都大学 非常勤講師)
出版社:英宝社
発行年月日:2025年3月14日

書籍紹介
男性作家は何を見るのか――あるいは、何が見え、何が見えていないのか。慎ましやかに、しかし大胆に、当時の性のイデオロギーとそのもとで生きる女性たちに向けられた「眼差し」を記録し続けた男性作家が、イギリスのヴィクトリア朝期 (1837-1901)にいた。執筆活動後期には、『ダーバヴィル家のテス』 (1891)や『日陰者ジュード』 (1895)などの作品で知られるトマス・ハーディ (1840-1928)は、イギリス南部ドーセットに生まれ、石工として、その後は建築事務所で働く、いわゆる労働者階級出身であった。小説『遥か群衆を離れて』(1874)によって成功したハーディは、現在もヴィクトリア朝時代を代表する作家の一人である。
最後の小説とされる『日陰者ジュード』の酷評によりハーディは小説家としての筆を折り、詩人として人生を終えることになったと一般的には考えられている。しかしながら、ハーディが小説執筆を始める前に詩人を志していたことや、小説執筆の最中にも創作活動の一環として詩作を続けていた事実は看過されがちであるように思われる。もとよりハーディは小説を捨て、詩を書いたわけではない。むしろ彼は、自身の 「眼差し」を散文においても韻文においても克明に記し続けた、小説家であり詩人でもあった。本書は、イギリス・ヴィクトリア朝期を中心に 20 世紀にかけて創作活動を行ったトマス・ハーディの小説、詩、両形式におけるセクシュアリティ表象を、フェミニズム・ジェンダー研究を起点として読み解き、ハーディの「眼差し」が捉えていたその事象、思想を明らかにすることを目指している。
ヴィクトリア朝といえば、何をイメージするだろうか。おそらく、ヴィクトリア女王治世下の、豪華絢爛、パクス=ブリタニカとして強大な国力を備え、イギリスが最も輝いた一時代を連想するのではないだろうか。ヴィクトリア朝時代において、その経済的、文化的発展の基礎となったのは、18 世紀後期から 19 世紀初期にかけて達成された、世界初の産業革命であった。産業革命達成後、イギリスの資本主義経済は急激に、そして着実に成長していく。世界に誇るイギリスの経済発展の背景にあったのは、階級制度と密接に結びつく、男性優位社会において女性たちに課された厳格な道徳観であった。ヴィクトリア朝時代の産業、宗教、科学、近代文化のその他の分野の発展は、主に中産階級の人々によって支えられていたこともあり、この時代の道徳観も同様に、中産階級の道徳観を如実に反映していた。
ハーディが執筆活動を行ったヴィクトリア朝期は、イギリスにおいて第一波フェミニズム運動 (19 世紀末-1920 年代) が盛んとなった時期と重なるため、当時のフェミニズムの思想や文化的背景に則してハーディの作品も読まれてきた。しかしながらハーディの作品には、1960 年代以降に展開されることとなる第二波フェミニズム運動の萌芽が見られ、作品においてハーディは、当時のイギリスの性的イデオロギーをたんに批判するのみならず、一方では受容し、システムや共同体の内と外において如何に「女性」として生きるかを世に問うている。この点でハーディは第二波フェミニズムという文脈においても再解釈されるべきであり、本研究によって、断絶、あるいは停滞していたと考えられていたイギリス国内の第一波、第二波フェミニズム間のギャップを埋めることが可能となると考えている。
またハーディはイギリス南部のドーセットを故郷とする労働者階級出身であることから、ヴィクトリア朝期に支配的であった中産階級的社会制度及び倫理観を労働者の視点からも捉え、克明に描写することができた。ハーディ文学特有の階級間格差やイギリス国内の地域性は、フェミニズム・ジェンダー研究を基盤としたアプローチと重ね合わせることにより、都市部のみならず、農村地帯に生きる女性たちの生き様をも浮き彫りにする。本書は、ヴィクトリア朝を起点とし、エドワード朝 (1901-10)、20 世紀初頭に至るまでの女性たちの生 (性)の実態を階級や地域を超えて明らかにするという点で、19 世紀から 20 世紀初期にかけてのフェミニズム・ジェンダー研究史を書き換えることを目指している。
本書は小説におけるセクシュアリティ表象と詩作品におけるセクシュアリティ表象の両方に焦点を当てた 7 章からなり、ハーディの小説家としての最終段階に書かれた長編小説『ダーバヴィル家のテス』、『日陰者ジュード』、『恋の魂』 (1897)や、短編小説「妻ゆえに」(1891)、詩 「乗 りの母」 (1918)、 「死鳥亭 でのダンス」 (1898)、「繻子の靴」 (初出 1910、詩集収録 1914)、 「刻み込まれた文字」 (1922)、「私の出会った女性」 (初出 1921、詩集収録1922)、 「教会オルガニスト」 (1922)、またこれらに関連した詩作品を分析対象としている。時代の道徳観から自らを解放しようとし、しかし他方では社会の二重規範の中で生きようとする女性たちへ向けられた小説家/詩人ハーディの 「眼差し」は、時代背景や政治、宗教的側面、イギリス国内の地域性に着目することで明らかとすることができるだろう。また本書によって、これまで光の当たることのなかったハーディの詩作品を、読み味わう一助となれば幸いである。