若手出版助成事業

阿毛 香絵『若者たちのイスラーム 現代西アフリカを動かす宗教性の人類学』

2025.08.09

著書:『若者たちのイスラーム 現代西アフリカを動かす宗教性の人類学
著者:阿毛 香絵(京都大学アジア・アフリカ地域研究研究科 准教授)
出版社:風響社
発行年月日:2025年3月31日

書籍紹介

 社会を動かす宗教ダイナミズムをどう理解し、どう描くか?これが本書を通じた大きな問いである。2000年代から2010年代初頭にかけてのセネガルは、かつてなかったほど政治と宗教の関係が可視化された時期だった。政府はスーフィ教団(イスラーム神秘主義の教団)への支援を背景とした農地改革や都市開発、教育改革を行い、アラブ・イスラーム圏に力を入れた国際政治を進めた。国公立大学であるダカール大学でも、学生たちは宗教サークルの儀礼や勉強会に積極的に参加した。
 本書は、教育の場であると同時に常に政治の場となってきた大学や高等教育機関における様々なイスラームの動き─中でもセネガルに複数存在するスーフィー教団やその下位集団、そしてアラブ思想に影響を受けたと言われる「改革主義」の運動─に着目し、それぞれの動きを近現代国家の変化の中に位置づけながら記述することで、近現代におけるセネガル社会の大きな変化を描きだすことを試みた。また、セネガルの教育と政治の場を形成してきたこれら様々なイスラームの動の中にいる「ひと」について明らかにし、現代を生きる若い信者たちの信仰生活を描きだすことで、現在進行形でセネガル社会を変化させていく宗教性のダイナミズムを理解することを試みている。
 序論では、社会における「ダイナミズム」と、上から、そして下からのポリティークに関する本書の理論的な展開について説明すると同時に、本研究の前提として、本書が着目するセネガルの大学生や学術組織、イスラームといった対象に関する先行研究が、大きな文脈における「知(識)-(権)力」、特に植民地政策による政治的意図を伴ったラ・ポリティーク(公的政治)領域によって影響されてきたことについて批判的に検証する。
 第1部では、先行研究の位置づけを踏まえたうえで、独立後も知識の場であり、政治運動の場とされてきた近代教育の場において、近年イスラームの運動が活発になった(あるいは「みえる化」した)理由について、第1 章から第3 章を通して明らかにしている。特に、1980年代の構造調整以降、セネガルが社会主義から自由主義の政権へ移行した時期に着目し、政治的エリート層が変化したこと、大学生や若い政治活動家といった政治的にアクティブな層が、かつてのフランス語話者知識人から教団信者などより大衆と呼ばれる人々に近い層にシフトしたことを指摘した。こうした中で、新たな政治運動を行う主体として都市の若いムスリム、特にスーフィー教団の信者や彼らの導師が活躍するようになった経緯を描いている。
 第2 部では、主に1990 年代以降、2000 年代の様々なイスラームと政治の動きについて、政府がムリッド教団という一つの教団との新たな政治的提携を顕著化させるなか、スーフィズム、あるいは「改革主義」のグループによって作られてきた教育の場や宗教的集合の場が、セネガルにおいて様々にポリティークの場を形成してきたことを描く。特に「若者たちの導師(マラブー)」と呼ばれるリーダーに率いられた政治・宗教運動や、改革主義系の新たな高等教育機関に注目し、これらの運動を中心として展開した同時期のセネガル社会の変容を分析した。こうした動きを描写すると同時に、これらの様々なイスラームの運動による近年のデジタル・メディアの利用について分析を行っている。
 第3 部では、第1 部と第2部で描いた大きな社会・政治における変容を踏まえ、これらの大きな動きの内部にいる個人について、第8 章と第9 章を通して、よりミクロレベルで信者の日常を描く試みを行った。第8 章では、特に大学というフィールドに着目し、学生信者ひとりひとりについて、社会生活や周囲との関係性を含めた「生きるための技─アール・ドゥ・ヴィーヴル(Art de vivre)」としてのイスラーム実践のありかたついて描いた。最後の第9 章では、信者の内面における心の動きや経験に着目しながら、彼らの神秘体験や宗教実践に関する語りを通し、信者が生きる宗教性や霊性文化について描写している。
 全体を通し、アフリカ、そしてセネガル研究を捉える際に、植民地時代以降脈々と続くアフリカのイスラーム研究の中で先行研究が作り上げ、踏襲してきた概念的な枠組みと、それらの対立の構造が、今大きく変容してきていることを示す。「改革主義」イスラーム対スーフィー教団、あるいは西洋的価値対イスラーム主義などといった二項対立の概念に基づく議論は、2010 年以降の世界の多極化を経て崩れ去りつつあるといえる。
 また、セネガルの近現代政治とイスラームの関係性について、宗教的権威に基づくと同時に、政治、社会参加のエネルギーを蓄積する新たな教育、活動の場、すなわち「知(識)-(権)力」の場には、教団やそれらの下位集団、「改革主義」主導のものなど、多様な動きが見られるが、これらの運動は「社会の再イスラーム化」や「イスラームの教えへの回帰」を主張し、信者である若い人々により良い/善い社会や自らの在り方といった指標を示すことを目的としている。また、これらの運動の思想や活動方針は、決して外来のものではなく、固有の民族集団や教団のグループを社会基盤とし、それぞれの地域や活動の場において、強力な信者のネットワークや帰属の根をはることで発展してきた諸運動であることにも着目すべきだろう。イスラームに基づくラ・ポリティーク(公的政治領域)/ル・ポリティーク(日々の細々したやり取り、関係性の束)は、互いに響きあいながら、信者が自身の生活圏の周辺で多様な団体の活動に積極的に参加し、様々な移動の機会を通してネットワークを広げることを可能にしてきたといえる。
 最後に、そこに参加する個人レベルでは、多様な主体による、よりおおらかな宗教意識に根差した「フレキシブルな宗教性」が、都市や大学キャンパス内に濃密で柔軟な礼拝の場を生み出している。若い信者の描写やことば、ライフヒストリーや様々なシーンのエスノグラフィを通し、彼らが異なる価値観や倫理観をうまくやりくりしたり、調和したりしながら、実践、生活している様子を描いた。変容する社会の中で、日々新たに自身を定義しつつ生きる一人一人の信者のバイタリティと柔軟さにこそ、セネガルにおけるイスラームのダイナミズムが宿っているといえるだろう。