文理融合的な「人間の行動理解」が育む 人間観の更新(阿部修士教授)
2025.04.28
自然科学と人文社会科学の往来
私は現在、認知神経科学の研究をしていますが、実はそんなにストレートな進み方をしてきたわけではないのです。高校では理数科だったのですが、大学進学を志すときは中国の歴史に興味を持っていて、とくに三国志が大好きでした。それで東北大学文学部の東洋史に進学しました。中国史の研究は、今やっていることとはまったく違い、まるっきり文系です。基本的に漢文を白文で読んでいくもので、時間をかけて読み解いていくことの面白さもあるのですが、自分がこれをメインとしてやっていくと思うと、ちょっと違和感がありました。そんな思いで大学時代を過ごしていたあるとき、脳活動を測定するという、自分にとっては未知の分野の実験に参加する機会がありました。生きた人間の脳活動を測定するという手法が、21世紀に入る前後に一般化してきたという時代背景もあったのですが、それまでは技術的には非常に難しく、人を対象とした脳の研究に限界があったわけです。私はもともと心理学には興味がありましたが、この実験に参加して、脳活動を画像化できるようになっていることに、強い衝撃を受けました。その後、人間対象の学問や、心理学分野の研究に興味があることを、実験を担当していた当時の助教授の先生に相談し、東北大学大学院の医学系研究科に進学することにしました。文系からまた理系に戻ったような動きになります。
所属したのは高次機能障害学という教室で、脳の病気を扱う先生がたくさんおられたのですが、脳の損傷後に、脳のどこが壊れてどんなことができなくなるのかを研究していく教室でした。記憶ははっきりしているけれど失語症があるとか、言葉は喋れるけれど空間認識がよくないとか、本当にいろんな症状を示す患者さんがおられて、その方々の脳の病巣と認知機能の障害との関係を調べます。そういった臨床的な研究もあれば、私が参加したような、健康な人を対象に脳活動を測定する研究も行われていました。たとえば計算を行うとき、言葉を理解するときに、脳がどのように活動しているのかを調べる実験です。病院の患者さんと健康な人、両方を対象として、大学院と卒業後の助教としての期間でトータル7年間、研究を進めることができました。
その後、2010年の4月から2012年の3月までの2年間、ハーバード大学の心理学部で研究を続けました。私が滞在した教室の先生はもともと哲学の先生でした。「1人を犠牲にしてでも5人を助けるのが正しいか」といった哲学的な命題がありますが、彼はそれを哲学の中だけで閉じるのではなく、自然科学の手法も用いることで、道徳判断を担う脳のメカニズムとして理解するための研究を進めていました。これは手法としては心理学や神経科学ですから、自然科学に分類されますが、彼ははっきりと自分は哲学者として研究していると断言していました。これはまさに学際融合的な研究で、哲学を含め人文社会科学系の問題意識に対して、文系の手法だけで解決しようとするのではなく、理系の手法を取り入れて解決するということです。そしてその結果を解釈するときには、もう一度人文社会科学に立ち返って、それまでの知恵や知識など積み重なっているものを基に再考し、哲学的な考察を深めていく。単に文理を融合しようとするとまとまらなくなるので、それぞれの分野の強みをどのように活かせるかをじっくりと考えることが重要です。そんな文系と理系の往来を経て、2012年の4月から人と社会の未来研究院(当時 こころの未来研究センター)に来ることになりました。
多様なパラメータの総体で成される意思決定
現在研究していることは、基本的に人間の意思決定や道徳的な判断のメカニズムなのですが、メインは、人間の正直さや嘘の研究です。正直さや嘘と一口に言っても、様々な種類がありますので、私はよく日常生活のことを例に出します。たとえばコンビニでおやつを買い、1000円払ってお釣りが630円のところを730円渡されたとします。本当は100円返さなきゃいけない。そんなとき、本当は釣り銭を返さなきゃいけないと思いつつ持って帰ってしまう人と、何も気にせず持って帰る人、また何も考えずにすっと返せる人、本当は持って帰りたいと思いつつ頑張ってようやく返せる人、のようにいろいろな人がいるわけです。それを脳のメカニズムを紐解くことで科学的に説明したいというのが、私の研究の基本的なモチベーションです。
この釣り銭の例で得られたさまざまな人の行動を、単に個人差とか、ケースバイケースだという結論は、あまり科学的ではないので、何が個人差を引き起こしているかを明らかにしたいわけです。たとえば、ドーパミンと呼ばれる神経伝達物質で活動する領域が脳にはあります。それは今から美味しいものが食べられそうとか、今日給料がもらえるとか、自分にとって報酬的な価値があるものを目の前にしてわくわくする感情や、それを実際手に入れて気持ちいいとか幸福に感じるという脳の領域です。報酬を獲得して次にまた同じ機会があったら、また手に入れようとする。そういった脳のメカニズムは個人差があり、側坐核と呼ばれる領域の活動がセンシティブな人ほど、ちょっとずるをしてお金がもらえる課題では、嘘をついてしまいがちだということがわかってきています。
私はこうした研究結果に、哲学的なアプローチを加えることも意識しています。厳密には、正確な哲学における定義と合致するわけではないのですが、例えば性悪説と性善説の視点を取り入れることは有用です。側坐核の活動が高いと、目の前の報酬に飛びついてしまう-つまり、嘘をつくことが当たり前で自然な形なので、これは性悪説との相性が良いわけです。一方で側坐核の活動がそれほど高くない人にとっては、報酬に飛び付かず、むしろ多かったお釣りをすっと返せる。これには性善説を当てはめることができそうです。つまり、側坐核の活動に着目すると、活動が低いと性善説に、高いと性悪説にフィットする意思決定がされており、性善説と性悪説との関係をグラデーションで捉えることができます。どちらかが正しくて、どちらかが間違っているというものではなく、あるパラメータに着目することで、それぞれの考えを両立できる枠組みを提案できるわけです。当然ながら、側坐核の活動にもとづいた報酬への感受性以外にも、複数のパラメータが関わっていますので、それらの総体として、人は最終的に意思決定をしているのではないかと私は考えます。そしてこうした知見を積み重ねていくと、その人の本性や意思決定の本質がどのようなものであるかを、今まで以上により科学的に理解できるのではないかと思います。
最近は誰かを助けるためのような、一見道徳的に正しい行為の裏に潜んでいる不正についても研究しています。例えば、自動車メーカーで完成品検査の不正問題がニュースになっていますが、必ずしも個人が私腹を肥やそうとしているわけではなく、自分が黙っておけば部署のみんなが大変な思いをしなくて済むといった、言い訳ができる状況があったことにも着目する必要があります。自分が嘘つくのはあの人たちのため、という理由付けによって道徳的な正当化がうまくいき、罪悪感もなく悪いことをしてしまう。そういった現象をもっと科学的に突いていきたいと思います。
また、ギャンブルの依存も広く言うと意思決定の一つなので、ここ数年は企業と組んでカジノを対象にした研究も進めています。たとえばバカラで顧客がどのタイミングでいくら掛けて、いくら勝ったか、いくら負けたか、またどういうことをすると危険で、のめり込むのか。数千から数万という単位での顧客のデータを分析して調べています。少し前に大手銀行の貸金庫で10億円盗んでいた犯人が、投機的取引で大金をすっていたとニュースになりましたが、ギャンブル投資もある種の依存症です。企業の横領事件でも、一度に大金を抜かず、最初はちょっとの金額で、それがだんだんと感覚が麻痺して繰り返す。ほとんどがそういう経過をたどっています。そう考えると、不正行為のメカニズムの研究とギャンブルの研究は少なからず繋がる部分があるので、両者を統合的に研究する必要性も感じています。
人間行動を科学的に理解し、世界で醸成させる
現在、ロボットやAIなどが発達することにより、それらに嘘をつかれたらどうするのか、という課題もあります。つまり、人間がそれをどう制御するのかということですが、嘘をつくメカニズムについての私たちの研究の知見が役立つかもしれません。また、嘘は必ずしも悪いものではなく、社会の潤滑油としての役割を果たすことがありますが、そういった嘘をつくことが苦手という人もいます。相手を気遣って、美味しくない手料理を美味しいよ、とごまかせなかったりする。自分では正しいことを言っているつもりなのに、なぜか相手との関係がうまくいかなくなるわけですから、本人にとっては大変なことです。もちろん、正確に発言することが間違っているわけではありませんし、嘘をつくことを推奨したいわけでもありません。ただ、こうした個人の特性を正しく理解しようとするなら、科学的な知見に基づいてメカニズムを知ることが必要です。
私は基本的には、人間をより正しく理解するための術や手法、枠組みを増やすことで、人間観の更新に繋げたいという思いがあります。かつてフロイトは、自分では自覚していない心の深層として無意識が存在すると論考しました。たとえば私たちは、酔っ払った人が暴言を吐いているのを見たとき、あの人の無意識の部分が出ている、と解釈することがあります。その正誤は一旦置いておくにせよ、この解釈は、人間には意識して表面に出ているものだけではなく、中に隠れているものがあるという無意識の概念が、世界全体で醸成された結果だと思います。もちろん、これからの研究によって大きく考え方が変わっていく可能性もありますが、少なくとも無意識という概念のおかげで、私たちが人間を理解するためのステップが1つ上がっていると思うわけです。
しかし、今なお理解することが難しい人間の行動の側面も少なくありません。犯罪ばかり繰り返す人が、ふと優しさを見せた、あるいはとても真面目な人が、貸し金庫からお金を奪った、そんなとき、私たちはどう解釈するのか。現在の私たちの人間理解の方法では、うまく説明できません。あの人があんなことするなんて、人間ってよくわからないよね、という曖昧な説明で終わらせてしまうこともあります。そうではなく、フロイトの無意識ほど醸成されてなくとも、なにか1つでも2つでも研究に裏打ちされた概念を出すことによって、人間の行動をより科学的に理解し、未来の人間観を先取りできればと思っています。
(取材・文 圓城新子)