公開シンポジウム「立ち止まって、考える」開催レポート

「1週間で10万再生」のオンライン講義を振り返る

世界が新型コロナウイルスと同居し始めてから、もう3回目の冬が来た。同じ未曽有の時を生きている人や社会の研究者には、人や社会の何が見えているのか、どう見えているのか。書物を通してではなく、進行中のできごとを誰かの思索や五感を通してひも解ける。そんな「あの時」を追体験できるシンポジウム「立ち止まって、考える」が2022年12月10日、京都大学楽友会館で開催された。

「あの時」とは、2020年から2021年にかけて京都大学人社未来形発信ユニットが実施した、コロナパンデミックを主なテーマとしたオンライン公開講義「立ち止まって、考える」の開講時である。シンポジウムでは、イントロダクションとして、運営を担当した文学研究科・大西琢朗特定准教授が、このプロジェクトの全体を振り返った。

文学研究科・大西琢朗特定准教授

「社会がどうなるか全然わからない不透明な状況の中、研究者は学問として何ができるのかを必死で考えて発信した」「『あの夏にこの講義があったのが救いだった』とおっしゃってくださる方もあった」「見ている皆さんも必死だった」

「立ち止まって、考える」は、最初の1週間で10万回再生されたのだという。徐々に記憶がよみがえってくる。疲労困憊に陥りながら医療を続ける人、その奮闘もむなしく亡くなっていく人々。人と人との関係は、触っても、話しても、近づいてもダメになった。画面からいろんな悲劇が流れ、どうしたら自分が助かるかを考えよう、とメッセージされた。倒れても今は助けられないと言われ続けている気がした。そういう熱に浮かされたような「必死」さの中、人は立ち止まってこんなふうに考えられるんだと知ることで正気を取り戻す、気付け薬のような存在だったかもしれない。

もう一つ大西准教授は、講義が研究者にとって、未完成で進行形の思考をフィードバックによって練り直していく場になったと指摘する。講義はYouTubeライブ・Twitterライブを通じて生配信され、誰でも申し込みなしに無料で視聴が可能なだけでなく、講義動画を見ながらコメント機能を通じて質疑応答に参加することもできた。講義を聞いて心が動いた瞬間、受け止めた何かを自分のものとして打ち返すことのできるリアルタイムの双方向講義である。「社会に出て新しい種類のオーディエンスと自分の研究を作り上げていくという、新しい研究の仕方だった」と聞いて、改めて講義が研究の場にもなることを知った。

「有事と平時のただならぬ関係」のリアル感

イントロダクションに続いて、公開講義の講師を務めた3人が、当時の問題意識とその後の視点について語る「講義=研究ライブ」の三連発である。

最初の登壇者、文学研究科・児玉聡教授は、「パンデミックの倫理学:それから」というタイトルで、コロナパンデミックへの対応の中で見えてきた倫理学的なテーマについて考察した。特に有事の倫理と平時の倫理の話は興味深かった。

文学研究科・児玉聡教授

コロナ禍において、人工呼吸器が足りなくなるような有事に備え、救える命を優先的に救うトリアージについて考えておくべきではないか、という議論があった。それに対して「そんなんあかん。そもそも命の選別をする状況を避けるのが先や」という批判に対して、「それができん『有事』を考えな、という話やろ。それほどの危機を想定するのが危機管理やんか」という批判。(児玉教授の紹介がこんな関西弁だったわけでは全くないが、議論に何となく血の通った感じがしたので勝手に脚色してみました。すいません。)

児玉教授は平時の倫理とは別に有事の倫理を考える必要があるとしつつ、さらに「有事の議論がわれわれの倫理を腐敗させる」という批判を紹介した。いざというときに誰を優先的に救うかといった話は、社会の連帯を弱める可能性があるというのである。実際、コロナ禍では年齢や病態で人工呼吸器の配分が決まった報道を見聞きして、切り捨てられるんだなと絶望的な気分になった高齢者も少なくなかったと思う。こうした悪影響を最小化する検討が大事だと児玉教授は指摘した。

この問題は視聴者からの関心も高く、原発、防衛や軍事、台湾有事、BCP、防災、国際法など、様々な方角からいろんな質問が飛んできた。関心事と関心事の応酬。児玉教授の打ち返しもどこへ飛ぶのかわからないし、やり取りが弾んでいく感じが面白いところだ。

外国人住民の福祉とコミュニティの可能性

2人目に登壇した文学研究科・安里和晃准教授は、「コロナ禍における外国人住民の雇用と福祉:包摂の排除の経験から」と題して、安里研究室で行われたコロナ禍のアクションリサーチについて講演した。

文学研究科・安里和晃准教授

安里研究室では、日本に住む外国人住民からSOSを受けて食料提供、行政サービスとの接続などの支援を実施。さらに、外国籍を持つ非正規の滞在者や学童に通うことが困難な子どもたちへの教育・食糧支援を行っている。

国籍や在留資格、ビザの種類による権利の制限による脆弱さが、コロナ禍の中でより脆弱にされてしまう構造が、具体的な事例として示されていく。コロナ禍の経済的支援も、セーフティネットであるはずなのに煩雑な手続き、雇用側の事情などによってなかなか円滑に支給されないケースが紹介された。

安里研究室では、支援の食糧を車で運ぶなど、できるだけ対面で訪問することを重視したという。つながりをつくることができればニーズを拾うことができるからである。そうした経験からの安里准教授は、外国人住民のセーフティネットの構築に重要な役割を果たすのがコミュニティの構築だと指摘する。福祉というと国家の仕事というイメージがあるが、それだと言語や文化の違いで細かいところまでは行き届かない。一過性でなく継続的な関係を構築する、互恵的な人間関係の中で支え合うというコミュニティの機能に注目。従来の国家に加えコミュニティ、家族、市場も含めた各要素が補完し合って機能することが重要だと考えを述べた。

研究者と研究対象者との関係についても言及された。安里准教授は、フィールドワークに出て情報を一方的に取り、学術論文という業績にするプロセスが心苦しかったという。アクションリサーチにおいても、互恵的な人間関係を構築することで倫理的な課題が軽減されると話す。研究の視点と実践の視点がミックスするアクションリサーチの現場感が伝わってくる。

コロナ禍で外国人住民が受けた打撃がいかに大きかったか、また以前から福祉が十分に行き届かない外国人住民の置かれている状況が具体的な報告から浮かび上がった。人口減少社会である日本における外国人受け入れ問題、福祉とコミュニティの問題など、様々な観点が提示された。

コロナ禍のオンライン化が与えた影響

文学研究科・喜多千草教授は、「メディア論から考えるオンライン社会」というタイトルで、情報技術が社会にもたらした可能性について講演した。ローカル・同期、ローカル・非同期、リモート・同期、リモート・非同期の4つのシチュエーションに切り分け、コミュニケーションの経済性からアプローチする。情報技術の発達は私たちがこの4つを自由に選ぶことを可能にしたはずだが、実際はどうなのか、と喜多教授は問いかける。

文学研究科・喜多千草教授

考えるヒントとして、メディア論のいくつかの学説が紹介された。その一つが「メディアは人間の感覚器官を拡張し新しい感覚の編成をつくる」という考え方だ。1960年代初頭、テレビの普及を契機として起こったという。同時代には、テレビを「途方もない期待を満たす幻影を製造する」ものだと捉えた学者もいたといい、喜多教授は現代のSNSとの類似性を指摘する。

また、伝える側と受け取る側との相互作用の中で意味が生じる場がメディアであるという考え方とか、コンテンツを解釈している側も能動的に意味を解釈しているといった考え方、さらに、電子(電気)メディアがもたらした影響を「場所感の喪失」とした1980年代の議論も取り上げられた。場所感の喪失の話で面白かったのは、技術が人のコミュニケーション行動を変えたということ。電子(電気)メディア以前のコミュニケーションは会社とか家とか物理的な場所に左右されていた。よく「公私」とか言われるあの感じが、現実の場に対応していたということだろうか。だが、テレビやラジオ、電話の普及で私的な場所にも外部からアクセスできるようになったことで、リアルな場の持つ力が失われた。

テレビ・ラジオ・電話の時代はまだ入り口だったリモート・同期は、コロナ禍で急速にコミュニケーション方法としての地位を確立した。できるようになったこともたくさんあるが、一方で違和感があったり、これまであったものに影響を与えた側面もある。喜多教授は、それを「リモート・同期が普及してどうなったか」と視聴者に問いかけ、一緒に考えを進めた。視聴者がリアルタイムに意見を書き込むと瞬時に共有されるツール・技術が可能にする、これも一つのリモート・同期のコミュニケーションである。

「遠隔で楽になったが、一方で、対面で会うことのハードルが高くなった」「リアルな場所のよさを感じるようになった」「オンラインの会では雑談が減り、新しいアイデア創出の機会やネットワークづくりの機会が減った」など多様な意見が寄せられた。リモート・同期を、まだまだ「自由に」は扱えてはいないようだ。

これを受けて喜多教授は、新しいコミュニケーションの手段を獲得するとそれによって感覚が変わり、全体の編成が変わっていくと指摘。さらに、リモート・同期の可能性が、今よく使われているツールに縛られているのではないかともいう。あるツールを使ったコミュニケーションに何か違和感があるからといって、それがリモート・同期の限界ではないということだ。ただ、そう思わされてしまうほど、技術はメディアやコミュニケーションのあり方と深く関わっていることも明らかになった。

社会とつながる人社系の未来

第二部では「立ち止まって、考える」を軸に、「人文・社会科学知の発信」がどうあるべきかを議論するパネルディスカッションが行われた。話題提供者として、学術研究のための寄付募集を研究・実践している信州大学社会基盤研究所特任講師で京都大学経営管理大学院博士後期課程の院生でもある渡邉文隆さんが登壇。渡邉さんは、大学への寄付は「社会を根本的に良くしたい」という気持ちがその背後にあると述べ、寄付をするとあたたかな気持ちになるという効用にフォーカスした。そのうえで、大学は従来のイメージ以上に多様な貢献を果たしていること、そして社会の中でどのような存在であるべきかに自覚的になることが重要だと指摘した。

信州大学社会基盤研究所特任講師/京都大学経営管理大学院博士後期課程院生・渡邉文隆さん

その後、登壇者全員に、人と社会の未来研究院副研究院長で「立ち止まって、考える」の名付け親でもある文学研究科・出口康夫教授が加わり、人社系の学問の価値をどう伝えるか、他分野との連携、文理融合や社会連携をどのようにすれば活性化するか、といった論点で議論が行われた。

印象に残ったのは、人社系の「面白さを伝える」という話題。興味のない人にも伝わる方法を考えていくべき、という意見があったが、その意味ではコロナ禍はものすごく重要な機会だったのだろう。否応なく、人や社会について考えるシチュエーションが与えられてしまった。出口教授はそれを、不幸ではあるが、日常の前提としていたものが崩され自分の足元が空っぽだったことに気づく機会を得たという意味では幸せな、「幸せな不幸」の状態だと呼んでいた。コロナ禍を経て、私たちはもう、知らなかった自分には戻れない。コロナ禍で感じた違和感はもう過去になったりしないし、現実に戦争もあちらこちらで起きており、経済社会はいつも変化していて、日常の前提だって刻一刻と塗り替えられていく。人としてどうあるべきなのかとか、考える枠組みや対象の切り取り方を教えてほしいというニーズは、ますます高まるのではないか。

「われわれはこんな価値を提案していると主張するほうがいい」という意見も出たし、「何が面白いか教えてほしい」という意見もあった。そういうつながるコミュニケーションが、これからいろんなレベルで展開していったら楽しそうだ。

パネルディスカッション風景

「立ち止まって、考える」は、研究室と講義を聴く人のリビングをつなげる試みだった。出口教授は、文系であれ理系であれ研究者はみな面白いから研究をやっているが、人社系は社会に対するダイレクトな有用性が見えにくい分、面白がり方の純度が高い。研究を面白がる人の空気感が生のまま伝わってくることが、コロナ禍の中である意味、救いになったのかもしれない、と話す。アーカイブでもその「研究ライブ」感はかなり追体験できる。今後はどんな形で、研究者たちの生の思索に触れる日が来るのか、とても楽しみだ。

(ライター:南 ゆかり)