京都大学オンライン公開シンポジウム「立ち止まって、考える」Q&A

2022年12月10日に開催した公開シンポジウム「立ち止まって、考える」で、当日お答えできなかった質問に本ページでお答えします。

R5.1.27掲載

★番外編:参加者からいただいたコメント

「あらためて大学の意味、学問の意味を考える機会になりました」、「懐かしい講義風景に戻ってきたような、気持ちが暖まる時間を過ごさせて頂きました」、「立ち止まり、振り返り、歩き出す。とても希望の持てる言葉ですね」、「社会人になり、環境や担当の変化が起こる際に大学で学びなおしたいと感じる場面が多いものの、時間の確保が難しく断念していましたが,このような開かれたシンポジウムで諸先生方のセッションを聞くことができ,大変有意義でした」など、たくさんのあたたかいコメントをいただきました。ありがとうございました!

R5.1.20掲載

★参加者からいただいたコメントに対する出口康夫教授からのコメント

(参加者からのコメント)

毎シーズン楽しみにしています。知的好奇心だけではなくて、先生方の学問を面白がる熱量に何より励まされました。「面白いからやる」という、この単純なことが許容されない場合も多い現代ですが、わたし自身の原動力として間違っていなかったと確信し、勇気をいただきました。

(出口教授からのコメント)

わたしは今、「WEターン」(「わたし」から「われわれ」へ)という観点から、いろいろなことの見方を変えていくとどうなるかを研究しています。「面白がる」(関西弁だと「面白がり」)という言葉がありますが、それもやはりWEターンの1つとして考えることができるでしょう。

面白がるというのは、基本的に一人の状態を指すイメージがありますが、よくよく考えると、じつは伝染性が高い危険なものなのです。まさに寄せていただいたコメントにあるように、誰かが面白がっていると、すぐに周囲に伝染するわけです。ただ、それも病気と同じで、皆に等しく伝染するわけではなく、かかりやすい人とそうでない人がいる。

なかでも、かかりやすい人=面白がる感度が高い人にはすぐに伝染し、のちに「われわれの面白がり」につながっていく。一人で面白がっているだけではなくて、その輪が広がっていき、「面白がるわれわれ」が生まれる、ということですね。知的共同体とは、そもそもそういうものであるはずです。

大学とは本来、そうした「面白がるわれわれ」があちこちで同時多発しているような場であるべきだし、これまでもそうあってきたのだと思います。それがこのように、オンラインというかたちでも、遠隔で壁を越えて実現できたのはすばらしいことですし、「立ち止まって、考える」は、まさに「面白がるわれわれ」の現象を実証したと考えていいのだと思います。

さらに言えば、「面白がるわれわれ」が生まれる出発点に存在する「わたし」にも、じつは背後に「われわれ」がいるのですね。わたし自身が面白いと感じるように思わせてくれた、自己の思考の母体となるような「われわれ」がいて、その中で自分が面白がっていると、そこからまた別の「面白がるわれわれ」が生まれていく。そう考えると、面白がる単位(ユニット)は基本的に「われわれ」になる。授業やこうしたオンライン講義は、「面白がるわれわれ」をつくるというアクティビティなのだと思います。

R5.1.13掲載

Q3 →渡邉文隆さんへの質問

「寄附」の概念がある文化圏では、「慈悲」という思想、哲学的発想が発達しているのでしょうか。

A3

ご質問、ありがとうございます。寄附に関心を持っていただき、とても嬉しく思っております。日本語の「寄附」と全く同じ概念の外国語があるのかどうかは網羅的にはわからないのですが、英語でのcharitable givingやphilanthropic giving、charitable contribution、donation、charitable giftsなどの言葉だけでなく、他の文化圏にも寄付やそれに類する行動を指す言葉はあります。

Dees(2012)ではそのような、各国で見られるcharity的な寄附の概念が、どちらかというと慈悲(benevolence)と結びつきが強い言葉であることが説明されています。また、それと対置される概念として問題解決(problem-solving)があると説明されています。

一方、シンポジウム当日にお話ししたphilanthropyは(対症療法的でない、より根本的な)問題解決と結びつきの強い概念であることがよく指摘されており(Watanabe, 2022)、こちらはかなり多様な使われ方をしている言葉です。ご質問の「哲学的発想」という面ではphilanthropyという概念の方が近く、この言葉はどちらかというと古代ギリシアに起源があること、プラトンやアリストテレスが広めたということが知られています(大西, 2017)。

そもそも寄附とは何か?というのは非常に魅力的な問いである一方で、それを突き詰めて考えてきた人文系の研究の蓄積が、効果的なファンドレイジング(寄附募集)の社会実装に十分活かされていないように思っており、それをこれから経営学の分野で研究・実践していきたいと考えております。

Dees, J. G. (2012). A Tale of Two Cultures: Charity, Problem Solving, and the Future of Social Entrepreneurship. Journal of Business Ethics, 111(3), 321–334.
https://doi.org/10.1007/s10551-012-1412-5

Watanabe, F. (2022). The Benefits of Separating Charitable and Philanthropic Giving in Nonprofit Marketing: Concept Analyses and Proposal of Operational Definitions (No. 2022-001-J; Japan NPO Research Association Discussion Papers).
https://janpora.org/dparchive/pdf/20220624J.pdf

大西たまき. (2017). フィランソロピー概念の考察. ノンプロフィット・レビュー, 17(1), 1–10.
https://doi.org/10.11433/janpora.17.1

R5.1.6掲載

Q3 →安里和晃准教授への質問

ヨーロッパの移民についての状況に少し触れられましたが、今後、日本は(少子化・人口減が進行するにあたって)この潮流に向かうでしょうか。または別の選択をする可能性があるでしょうか。(人権の観点も含めて教えていただければと思います。)

A3

労働力人口の減少に伴い、AIやロボットの導入による生産性の向上を試みても、労働需要圧力は一層強まるでしょう。
軍需の増大もそれを後押しすることになると思います。
ただ、海外の人材を受け入れるか否かは、すべて受け入れ政府の裁量となっています。

これまでのところ、日本政府は日本は移民社会ではないという立場をとっており、また人道的受け入れも独自路線を貫いていますので、欧州のように社会統合を進めながら受け入れるというよりも、その都度場当たり的になるのではないかと思います。

シェンゲン協定に加盟しているEU諸国は移動の自由が認められていますが、分断されている東アジアでは、お互いの労働力を融通させるというやり方はできないでしょう。欧州と日本では人口減少という共通の現象が見られますが、その対処法は大きく異なるものになると思います。

R4.12.23掲載

Q2 →児玉聡教授への質問

講義を聞いて、情報と環境との関係がシームレスになりつつある時代を生き抜くうえで「立ち止まって、考える」重要性を感じましたが、情報弱者にとって道徳的サンクションの対象にされかねないネット社会の倫理は、強制的・法的サンクションが必要なのでしょうか?

A2

ご質問ありがとうございます。もちろん何にでも法的規制や罰則を課すべきではなく、なるべく個人の自由を尊重すべきだと思っておりますが、ご指摘のように、ネット上では炎上や誹謗中傷という形で道徳的サンクションが強力に働くような状況があります。

日本でも本年7月より侮辱罪の法定刑の引き上げが行われましたように、こうした状況に対しては法の規制も必要な場合があると考えられます。法と道徳の関係やそのバランスについては、今後も充分な議論が必要だと考えられます。

R4.12.16掲載

Q1 →喜多千草教授への質問

喜多先生のご発表とても興味深かったです。ローカル/リモート・同期/非同期の区別は腑に落ちました。コロナでオンライン化が急激に進んで、何か変わったのは分かるけれどもはっきり分からなかったことが、分類してもらえたことでスッキリしました。過去の歴史の蓄積があって、それをもとに現代を紐解けることが楽しいです。

メタバースが疑似ローカル・同期だという話を聞いていて、疑似ローカル・非同期のツールはあるのかな?と疑問に思いました。メタバース内のスマホのチャットが該当するかとも思ったのですが、これらリモート非同期に当てはまる気もしています。先生はどうお考えですか? また、疑似同期というカテゴリーは有り得るのでしょうか? 疑似ローカルがあるなら疑似同期もありそうと思ったのですが、具体例が思いつきませんでした…。

A1

ご感想と質問、ありがとうございます。メタバースについて私に話を聞いてみたい、という事前質問があったとのことだったので、時間的に無理かなと思いつつ、「メタバースは疑似ローカル」と早口で話してしまったところでした。

まず「疑似ローカル・非同期」ですが、例えばある工場の生産ラインでの作業を遠隔労働者に行ってもらう例を考えると、テレプレゼンスをつかった精密な「疑似ローカル」は必要になりますし、生産ラインのベルトコンベアーでの流れ作業であれば「同期」も必要になるでしょう。ただ、もし検品を行ってもらう作業は時間の同期性はかなりゆるくて、ある期間内に作業を終えてもらえばよいようなケースでは「非同期」とも言えるような状況になっている可能性はありますね。あとは「疑似ローカル」が技術的に一般化してコストが下がってきた場合には、家にいながらの観光などが「疑似ローカル・非同期」でできるようになる可能性は高いです。ただ誰かと一緒に旅行したくてその相手とインタラクションが必要なら、その相手とのコミュニケーションという観点からは「疑似ローカル・同期」になるでしょう。

つぎにチャットツールについてのご質問。チャットはリモート・同期が基本ですが、リモート・非同期にもつかうことができますね。こうしたもともとのツールのデザインとは異なる使い方から新しいツールの発想が生まれることはよくあります。たとえば匿名掲示板で「実況板」が非常によく使われるようになったのも、そもそも非同期ツールとしてデザインされていた掲示板を同期的に使う人が増えた例です。このような掲示板での同期的な賑わいを、非同期ツールに取り入れて成功した例がニコニコ動画であることは、佐々木俊尚『ニコニコ動画が未来を作る』アスキー新書(2009)などに説明されています。このニコニコ動画のデザインを濱野智史『アーキテクチャの生態系』NTT出版(2008)では、非同期でありながら同期的な賑わいを作る方法として、コンテンツの時間軸にそっての同期性をつくること(別の時に同じコンテンツを見た人が、コンテンツの同じ箇所で感じているコメントが表示されることで、いつ再生しても大勢と一緒に鑑賞しているような状況がつくられること)を「疑似同期」のデザインとしています。まさにお気づきの観点が論じられていますので、きっと興味深く読める文献だと思います。

今回の「振り返って考える」で取り上げた、電気的メディアの分析では空間(ローカルかリモートか)が着目されていましたが、濱野さんの分析では時間(同期か非同期か)を使っています。この空間・時間の軸を両方つかったメディアやコミュニケーションの整理がミッチェルの「エコノミー・オブ・プレゼンス」であることは、前回の「立ち止まって、考える」でも今回の「振り返って考える」でも紹介したとおりです。ちなみにメタバースを考える際に「疑似ローカル」という考え方を取り入れたらいいのではという議論は、『現代思想』9月号のメタバース特集で「源流から考える『メタバース』」という論考に書きましたので、よかったらこちらもぜひお読みいただけると嬉しいです。