郭 旻錫『自己否定する主体―一九三〇年代「日本」と「朝鮮」の思想的媒介』
2024.10.26
著者:郭 旻錫(KWAK MINSEOK, 京都大学人間・環境学研究科 講師)
出版社:京都大学学術出版会
発行年月日:2024年3月5日
書籍紹介
本書の具体的なテーマは、その副題「一九三〇年代「日本」と「朝鮮」の思想的媒介」によく示されている。本書は、一九三〇年代における「帝国日本」(日本内地と植民地朝鮮)の諸思想を研究対象にして、そこに刻み込まれている「日本」と「朝鮮」の姿を追跡したものである。つまり本書の一次的な問いは、「日本とは何か」または「朝鮮(韓国)とは何か」である。この問いに答えるために、筆者は一九三〇年代という危険極まりない時代にまでさかのぼり、「日本」と「韓国」の起源を探ったのである。
「日本」や「韓国」という記号が日常的に飛び交う現今の社会状況のなかで、わざわざ一九三〇年代という問題的な時代にまで立ち帰ったその理由については、以下の二つの理由に分けて考えてみることができる。
一、韓国からの留学生として日本で生活していた私としては、「日本」や「韓国」という記号はあまりにも自らの生活に直結しているものであって、それを冷静に認識することが難しかったという点。自らの生活に直結していたとはいえ、それは何も確かなものではなく、足元からゆらゆら動いているかのように思われた。だからこそ、「日本とは何か」、「韓国とは何か」をことさらに問うしかなかったのである。そして、つかみどころのない今現在の「日本」、「朝鮮」ではなく、すごし時代をさかのぼってその起源を探ろうとしたのである。
二、「日本とは何か」、「韓国とは何か」という問いが決して別々に存在する問いではなく、「日本」と「韓国」はその関係性から探求されなければならないということを、私はおぼろげでありながら感づいていた。そのような認識が次第に明確になると、日本と韓国(朝鮮)が「帝国日本」というキメラ的存在として合体していた一九四五年以前の時代が、重要な意味をもつ時代として現れた。特に「日本」や「朝鮮」という観念が新たに吟味されるようになった一九三〇年代という時代は、いまの「日本」と「韓国」の関係を問うためにも、改めて探求される必要があると思われたのである。
しかし、「日本」と「韓国」の関係を新たに問う作業は、それほど容易ではなかった。そこには、あらゆるイデオロギーと歴史的な重圧が付きまとっていた。そこで、私はその作業を進めるために、新たな思考の枠組み、新たな人間観、新たな主体論を提起する必要があると考えた。そのような理論的模索から生まれたのが、本書のタイトルである「自己否定する主体」という新たな主体論である。この主体論から、人間に対する理解を一新することで、「日本」と「朝鮮」の関係も新たに規定することができると、私は考えたのである。
この新しい主体論を具体的に打ち出すために、一九三〇年代という時代が生み出した様々な思想は、恰好の材料になってくれた。私は、哲学、文芸批評、文学などを横断しながら、「自己否定する主体」の痕跡を追跡した。日本の思想家としては、田辺元、三木清、小林秀雄、戸坂潤、横光利一、川端康成、朝鮮の思想家としては、朴鍾鴻、朴致祐、申南澈、崔載瑞、李箱など、数多くの思想家と対話しながら、彼らがいかに自らを強く否定しながら、新しい主体性を生成していたのかを分析した。そして、そのような主体性を支えている「日本」や「朝鮮」という観念が、前よりずいぶんと具体的に浮かび上がってきた。
この探求の過程で、「日本」と「朝鮮」(韓国)の関係は、主体の熾烈な苦闘によって担われていることを実感することができた。「日本」と「韓国」の関係を真に理解するためには、その間に生きている無数の主体に目を向けなければならない。その人間的なはたらきを理解しようとする真摯な努力なしには、「日本」と「韓国」の関係は分からない。そうであれば、「日本とは何か」、「韓国とは何か」という問いは、虚しいこだまに帰するしかない。そのように私には思われた。
本書での試みが、「日韓関係」というアクチュアルな問題を考えている人々に、ひいては「人間とはなにか」という根源的な問題に取り組んでいる人々に、共感が得られることを願ってやまない。